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純粋さと努力

皆様、お久しぶりです。ゆみむです。

ここ最近、言葉が浮かんでは消えというのを繰り返し、今に至ります。

いつも記事を作成するときは、何を伝えたいのかを明確にし、記事を書き始めるのですが、想いが途中で消えていく感覚に襲われるのです。今も。


さて、そのような中で1つ思うことが。

それは、”努力をするには純粋さが必要である”のではないかということ。


ひねくれすぎる人は努力ができなくなってしまうのではと思うのです。

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ひねくれが努力を妨げる理由は、
ある程度、結果が予想できるから
これにつきると思います。

ひねくれるということは、”斜に構える”ということになります。
そして、斜に構えられる人は、一定以上の思考力がある証拠であると僕は思っています。なぜなら、人の意見に流されず、自分の考えをもっていることになるから。

思考力があるということは、先を見通す力がある程度あるのではないかという仮説があります。その仮説が正しければ、考える力がある人ほど、努力の先を予想し、その努力と努力した先を比較する力があるということになるのではないかという考えに至ったわけです。

ただ、努力し続けられる人はやっぱりいるわけで、その中に頭の良い人は存在するわけです。(若林さんもそんな気がする)

じゃあ、努力できる人とできない人の違いはなんだと思って、でてきた1つの答えが純粋さだったのです。

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目的があって、その目的に近づくために、あなたはどのような道筋を行くだろうか。


僕は、この道筋の進み方について、2パターンあるのではと考えました。

・純粋さを武器に突き進む人
・合理性を求めて突き進む人

の2パターン。


純粋さを武器に突き進める人は、他人を巻き込み、味方にする節があると思う。少年ジャンプの主人公的進み方だ。多分、少数派な気がする。


合理性を求めて進む人は、現実を知って、社会を知っている人なんだと僕は思う。きっとこっちのほうが多いんじゃないかなと。

そして、この合理性を求めすぎてしまう人がひねくれてしまう人なのではないかと感じます。無駄なく効率よく生きることが社会を生き抜く術だと本能的に理解し、その中で負(腐)の感情に囚われてしまった人。

その人たちにないのは純粋さ


つまり、ひねくれている人は、合理性に囚われている節があるということになる。

要するに、究極なひねくれ思考になればなるほど、純粋な努力ができなくなると僕は思うのです。

社会人がパズドラしかできなくなるのも、合理性を求めた結果。体力の無駄を極力減らすという合理性のもとで生きている。

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僕が生きていく中で、1つ心にとどめておきたい言葉がある。

ある面で合理的、また別の面で非合理的な存在が人間である

これが誰の言葉であるかは言わない。
それが気になるようであれば、あなたは合理性を求める節があるのかもしれないですヨ。


複雑な現実を無理やり抽象的な2つの事象に分けて考えても答えは出てこない。そんなことよりも純粋さを武器に突き進める方がよいのではないだろうか。そんなことを思うのです。


あなたは周りを巻き込んだ経験がありますか?


就活でよく聞かれたこの質問は、純粋さを問う質問だったのかもしれない。。。



ではでは。

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