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よんだ「澄み透った闇」写真家・十文字美信 著(1987)

自分らを「犬の子孫」と信じる「ヤオ族」の精神世界を求め、写真家・十文字氏は彼らを探しに行く。探しに行くというのは、「ヤオ族」という対象と同時に、己の内面にある「見る能力の限界を広げる」という写真家欲でもある。

「ヤオ族」は、漢民族の進出により、山岳地方に移動(13世紀頃)。北部広東、西部広西、東部雲南などへ。

なんの手がかりもないまま「ヤオ族」と接点のあった「アカ族」との場面から物語は始まる。この本は、写真家魂の旅の記録であるが、半村良氏のSF伝奇もののようでもあり、インディアンの呪術師に学んだカスタネダ(人類学者)の体験記のようでもあった。

十文字氏は、偶然か必然か、「ヤオ族」の呪術師「老四」に受け入れられ、生活・儀式を共にする。「老四」の言葉を残しておきたい。

われわれをとりまくすべての万物には等しく霊が宿っている。霊は同時にわれわれの内部にも存在し、時として霊は力となって現れる。内にある力が自己をすり抜けて外界と調和する時、われわれは万物を認識し、本当の意味でそれを見ると言う。

第5章 見えない力 P. 109

光に先立つものは闇なのだ。闇はあらゆるすべての存在に先立つ。たとえどんな言葉を駆使して表現したとしても、とどのつまり存在の本質は闇なのだ。

第5章 見えない力 P. 113

混沌とした世界に明確な線を引き、二つに分けた領域を同時に見ることができる接点こそ、われわれが立つべき場所なのだ。左と右、上と下、天と地、陰と陽、それら二つの世界の接するところにわれわれは身を置いているのだ。

第5章 見えない力 P. 127

自分たちがどう答えようと、それをどう理解しようとただの言葉に過ぎない。それより言葉になる以前に内部に沸きあがるいろいろなものを、言葉でないほかの方法で自身に問い返したらどうだろう。

第5章 見えない力 P. 128

力を知覚するのが直観なのだ。力は徐々にやってくるのではなく、一瞬のうちに訪れる。見えるものは見えないものを通して現れていることに気づくべきだ。形体の裏に形なきものが横たわっているのだ。形なきものを知覚することによって、形そのものにも生命が生まれるのだ

第5章 見えない力 P. 131

老四と十文字氏の、「ヤオ族」の古文書「評皇券牒」を探る旅がはじまり、クライマックスへ向け、引き込まれていく。

枝や水があなたの心に本当に届いたとしたら、その瞬間あなたが見たのは、<時>なのだ。<時>が日常生活に姿をあらわすと、それは具体的な物象としてあらわれる。<時>はある時枝になり、ある時水になり、ある時雲にもなる。

第9章 ヤンチェットフィンコウトウ ー 走七星羅歩 P. 252

内なる力を刺激することによってあらわれる橋と天の北斗七星だ。地上世界と天上世界を結ぶ橋と、その橋の上に降臨した天の北斗七星を踏むことにより、二つの世界を過渡することが可能となる

第9章 ヤンチェットフィンコウトウ ー 走七星羅歩 P. 238


私の初読では、ここまでを書き写すのみ。犬の神話は、自分の腹に落とすのに時間を要しそうなので、ここに書かない。藁の人形をつくった時点で、命が吹き込まれる考えは、少し前の日本人なら持っていた感覚。水への信仰を持ち、言霊同様、呪術となるのは、出雲神話を思い出す。

目の前のモノ・事を、見ているようで見ていない。
見たモノ・事を腹に落ちてきてこそ、見た、と言えるのかもしれない。
私は何を見て生きてきたか。
何も感じてこなければ、それは(心の)盲目ということか。