見出し画像

音楽つらつら2

浪曲を聴いてたはずが、なぜか映画へと気持ちが移りゆくのは、
そうそう、渡辺京二さんの「逝きし世の面影」をまず読んでいて、
江戸時代までの日本文化は、明治に入り断絶される。
明治以降の日本は、江戸時代の否定が前提で、
ヨーロッパのどこかの国の欠片を土台に、積み木しようにも、いびつ。

テレビ番組「Youは何しに日本へ」とかいうもので、
昭和30年代までは、古き良き日本が残っていた、などと
アングロサクソン系のお人が言われておりまして。
なになに成瀬巳喜男か、小津安二郎か。
江戸時代を否定しても、まだ細く流れていたなにかとは。
そう簡単に分かるはずもなく今に至る。

あの頃の映画を観ていたが、次第に現代へ。是枝裕和監督とか。
転じて韓国映画、イ・チャンドン監督「オアシス」を観てから、
しばらくは韓国映画。おいおいワールド・シネマへと手をひろげ。

いっときの映画熱が過ぎ去ってみれば、
逝きし世を追い求めている自分はどこへやら。
自分の短い過去を振り返り、中森明菜、山口百恵と聴き進み。
人生の最後に聴くのは、山口百恵のどの曲か、などと考えながら。
「異邦人」を懐かしみ、
シンガーソングライターつながりというわけではないけれど、
スザンヌ・ヴェガ、ベス・ニールセン・チャップマンほか、
英米女性の歌を聴き。
少し江戸の香り、新内節(浄瑠璃の一種)を聴き出したのは、
松岡正剛さんが、語り・岡本文弥さん、「新内的」作者 平岡正明さんらを
誉めまくり。晩年の音源なれど、只者じゃない。

ほか、余り聴いてこなかったスティーリー・ダンや。
ここまで、日本のものか、英米のもの。
といった感じですが、音楽を聴いていなかったのは、
映画を観ていた数年間。
映画と音楽は、どちらか一方となるようで、私の場合。

このnoteをはじめたのが、昨年2023年の4月からですから、
2022年の暮れあたりから、ワールド・ミュージックと言える
イタリア音楽「タランテッラ」を聴き、
次第に、以前よく聴いていた「ポップ・インドネシア」なんかも聴き
(今現在はあまり聴いていない)、回復のきざしがあったが、
音楽を聴く体質が変ったのか、ワールド・ミュージックではない方へ
進んでいく。

もともと過剰に聴きすぎていたのです、多分。
ワールド・ミュージックなんかは、聴けば聴くほど範囲が膨張していき、
そんなの全てに手がまわんないから、
ある程度、自分の好みのジャンルだけで鞘を納めるのですが。

今まで聴いた音楽が聴けなくなる。それまで膨張政策できていたのが、
同じ方法では成り立たなくなる。
音楽だけではなく「中年クライシス」なるものは、
今までとは方法を変えないと駄目ですよというサインでは。

単純に折り返し地点と考え、膨張政策とは逆の削減へ向かう。
良く言えば「洗練」。
例えば、本。千夜千冊は、今では、1849冊もの紹介があり、
それなりに多い数なわけですが、
それを選択することで、他の無限の選択を、大幅に削ったのです。
最終的に、18XX冊までいったら、そこからは、更に絞っていきます。
邦訳書は省き、それ以外の本をまず選ぶかもしれない。

その本の前に、少し膨らみだした「音楽」の方を削る必要がある。
でも、千夜千冊に関する「音楽」はとっておきたい。
それ以外は全て削る。。。なんて決断は、今の私には出来ず。

いっとき、日本の音楽だけにしようかと思ったが、
そもそも「日本の音楽」がなんなのか分からない。
日本演歌のひとつのタイプとして、
イタリアの歌謡に近いものだったりするし。
その前であれば、唱歌自体、ルーツ・ヨーロッパが多く。

それでも、「日本人がつくった音楽」というくくりは出来る。
クラシック音楽であったとしても。。。

「Dio Come Ti Amo 愛は限りなく」   Baisho Chieko 倍賞千恵子

これはカンツォーネの曲に、日本の言葉をふったもの。
倍賞千恵子さんの、抑制された熱唱 ♬