「オンライン授業を通した考察」というエッセイの供養

背景(読み飛ばし可)

私は何をやっているんだろう。

先日、とある奨学金に応募したのだが―—正確には、応募しようとして、できなかった。

理由は単純、締め切りに間に合わなかったから。

その奨学金は学校を通して応募するもので、郵送か、事務所の開室時間中(11時~15時 コロナで短縮されている)に提出しなければならなかったのだが、私は間一髪で間に合わなかった。一応扉が閉まって「閉室」の札が下げられた後も人はいるので、汗だくで死にそうなほど息を切らしながら(全力ダッシュしたので)どうにかこうにか頼み込んでお願いしますお願いしますと提出したのだが、その2日後、事務所からメールがあり、その奨学会から不採用の通知が来たとのことだった。事務所が、私が遅れて出したという事情書を添えて奨学会に提出したので、それでは受け取ることができない、と返却されたとのことです。

・・・はい。そりゃそうだ。私に文句を言う資格はない。公正な手続きのためにこのような事態となりました、ご理解ください。とのことですが、ご理解するしかない。私が悪いんだもの。

ああ、お忙しい中教授にわざわざ推薦状を書いていただいたのに。手数料払って成績証明書とか取ったのに。わざわざ健康診断に4000円も払ったのに…!徹夜で書いたあのエッセイ、手書きで書かされたあのエッセイは、私のかけた時間は一体何だったのだろう。。。。。

そもそも、始めるのが遅すぎたのだ。わかってる。締め切り前日に徹夜で課題エッセイを書いた。パソコンで下書きを作って、それを手書きで写している最中、あまりの眠気に間違えそうになったので、仮眠を取った。1時間で目覚ましをかけていたが気づかず、目が覚めたら事務所の閉室時間の1時間前……………学校までは約1時間かかる。エッセイも写し終わってない。寝起きのまま着替えだけして家を飛び出した。電車の中で必死で写した。駅について、猛ダッシュした。提出先の学校の事務所は最寄りのキャンパスより少し遠いところにある。喉と肺が潰れそうになりながら事務所へ着いたときがちょうど15時で、扉の前には「閉室」という看板。かまわず扉を押し開けて中へ入った…。

そこまでして出して、結局受付すらしてもらえなかった。馬鹿すぎる。早く始めなかった自分を殴りたい。いつもそうだ。締切のぎりぎりまでやらない、最低最悪の癖。今までそれでもなんとかやってこれたが、今後もそうとは限らないし、今後も人に多大な迷惑をかけてしまうだろう。そろそろこれADHDだろうな、と自分でも思う。人には多かれ少なかれADHDに当てはまる部分があるというので、この病名やそう診断されている人に対して私は特に思うことはない。ただ、それが分かっているなら、起こりうる不都合を予防する対策を自分でできる範囲でするべきだ。私はその努力を怠った。だからそのツケが回った。

さすがに、今回で最後にしよう。こういう馬鹿なことをしでかすのは。

これ以上続けると自己嫌悪の深みにはまるだけなので、ここでの反省はしめて、本題に移る。即ち、必死で書いたエッセイが水泡に帰したので、それならばとここで供養するのを許していただきたい。

課題に対する応答として書いたので、別に読み物として面白くはないかもしれないが、載せることで報われたいと思って、ただそのまま貼り付ける。

なお、こちらのエッセイはコピペ、二次使用ガンガンOKです。もしオンライン授業の考察ってテーマの課題に困っている人がいたら勝手に使ってください。ただし、使用による不利益については一切関知しません。剽窃対策などは各自でおこなってくだされ。

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オンライン授業を通した考察

私は2019年の秋からスウェーデンに交換留学をしていた。2020年3月中旬にはCOVID-19が世界規模に広がり、多くの日本人留学生が帰国を余儀なくされたが、私はスウェーデンに留まる選択をした。現地でオンライン授業と学期末の試験を受けて、6月に正式に交換留学を終了した。この約3か月で感じた、オンライン授業の可能性と、そこから改めて考えた留学の意味について考察したい。
まず、全面的なオンライン授業の導入は、教育の可能性を大きく変えたと思う。また、私は今後オンライン授業がスタンダードになっていくことに賛成だ。なぜなら、全面的なオンライン授業は、場所による制約を受けずに誰もが良質な教育を受ける機会を増やすからだ。オンライン授業のメリットとして真っ先に挙げられるのは通学時間の短縮だが、これは単に遠方に住む人の負担を減らすなどに留まらず、家庭の事情で家から出られない人、身体的な問題や金銭的な理由で通学ができない人にも教育を受ける機会を与える。さらに言えば、例えば途上国に住んでいても、ネット環境さえあれば他国の一流の教育を受けて学位を取得し、職を見つけ貧困を抜け出すといったストーリーも至って現実的なものとなる。本来、教育とはすべての人に与えられるべき機会だと思う。様々な人にとって必要な教養がより安価に手軽に手に入ることは、世界全体の改善と発展に繋がる。オンラインであることでそれが実現できるのであれば、積極的に推奨するべきだろう。
もちろん、オンラインでは教育の質が下がるのではないかという意見も多い。完全に否定はしないが、私は全面オンライン授業でも工夫によって教育の質を保つ、むしろ上げることも可能だと思っている。留学先のオンライン授業で驚いたのが、教授陣や学生にとっても初めての試みであったにも関わらず、対面のときのようなインタラクティブな授業が意外と実現できていたということだ。ツールはZoomを使っていたが、教授の講義を聞くだけでなく、積極的な質疑応答、学生同士の議論もほぼ問題なく進められた。ただ、より対面時のようなインタラクティブな効果を得るには工夫が必要だとも感じた。ある授業がまさにオンライン授業の成功例と思われたので紹介したい。その授業では、まず担当の先生が非常に明るく歓迎的で、もう一人の先生と授業前に雑談しながら学生にも話しかけたり、学生が入ってくる度に挨拶をしたりすることで、オンラインでありながら温かい教室の雰囲気を作り上げていた。その上で、よりインタラクティブにするためできればカメラをオンにして顔を見せてほしい、と言えば多くの学生が応じた。どんな発言も受け入れられる、という雰囲気があったために学生の発言が増え、議論が活発化した。また、授業だけでなく、課題を見合ってオンライン上でコメントし合う数名の学生同士のバディ制度があり、実際は会えないクラスメイトと毎週フィードバックをし合った。プレゼンテーションも同様に、全員の前でオンライン上で発表し、バディ学生がその場でフィードバックを返した。こうした結果、一度も会えていないクラスメイト達や教授との間に一種の連帯感を感じていたのは私だけではなかったと思う。実際、授業の満足度は非常に高く、私を含め多くの学生がこうした授業作りをした教授に感謝し、オンラインでここまでできるのかと感動した、とコメントしていた。
つまり、先生と学生双方の工夫と協力によって、質の高い授業はオンラインでも作れる。であれば、場所の制約がないため教育の機会を拡大できるオンライン形式が今後は前提になるのがよいと思う。もちろん、対面でしか得られないもの、例えば授業前後の雑談の中で生まれる偶然の気づきや発見、生身の人間のコミュニケーション、「場」を共有するからこそ生まれるシナジーや学習経験などは非常に大切だ。だから、可能であるなら、すなわち問題なく通学できる学生のためには、対面の授業はオプションとして存在したほうがいい。

では、質の高い教育を世界中から選んでオンラインでどこででも受けられる世界になったら、自国を出てわざわざ他国で教育を受ける留学の意味とは何だろうか。
私は、それは勉学だけでなく生活もすべてその環境に置くことだと考える。現地で生活することでしかわからないこと、異文化に囲まれ、マイノリティとして扱われること、自国民以外の多様な人と関わることで気づく自分や自国の前提、また、その地域の自然環境や歴史的背景により発達した学問を学んでいるなら、現地を歩き回ったり現地の人と交流することで実体験としての学びを得られる。例えば技術がどう社会に実装されているのか、街づくりに生かされているのか、人々にどういう意識が根付いているか、行動に影響しているかといったことだ。私は授業以外の普段の生活もフィールドとして直接的、体験的な学びをすることが留学の重要な要素だと考えている。現在、留学先大学の授業を日本においてオンラインで受けるという留学形態を取らざるを得ない学生も多いが、私はこれは厳密には留学ではないと思う。確かに勉学の面では、その海外大学の授業を受け、そこに所属する学生たちと議論をしており、オンラインで実際にそこへ留学しているともいえる。しかし、授業や課題以外の時間は通常通り「母国」に囲まれて生活していたら、異文化での生活の中の学びを得られず、留学というよりは、オンラインで拡大された教育機会の享受に他ならない。


オンライン授業は教育の可能性を広げるため、工夫しながら今後も積極的に取り入れるべきだ。一方で、オンラインのみの授業が留学の代替になることはない。今後は対面や実地の学びを尊びつつ、オンラインを効率的に取り入れていく融合が必要だろう。

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また、今回に限り、「このエッセイじゃそもそも書類で落とされてたよw」というコメントも、甘んじて受け入れます。(言い方は気を付けてほしいけど)

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