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武士道の教え【忠義】

音声で聞きたい方はコチラから。

今日は武士道最後の徳目、忠義についてです。
この忠義、武士道の徳目の中では、最も私たちが縁遠く感じているものだと思います。

武士道は危険な思想なんじゃないか…と思っている方って、意外といらっしゃるんですが、その原因は恐らくこの忠義の教えのせいだと思います。

「主君の教えは絶対で、主君に死ねと言われたら迷わず死ぬ」
というようなイメージが強いようですが、それは本来の忠義の意味ではありません。

また、太平洋戦争時の神風のような特攻精神を武士道の忠義と思う方もいるようですが、あれは軍国主義教育の中でいう忠義であって、武士道の忠義そのものではありません。

忠義とは、真心を持って尽くすことを意味しますが、その対象にには常に義があること、つまり正しい事であった場合に限定されます。
もし自分の主君が正しくない事をしてると思ったなら、むしろ命がけでそれを止める。
それが本来の忠義の意味でした。
武士たちの間でも、何でもかんでも命令に従う奴はただ媚びているだけのご機嫌取りとして、軽蔑していたくらいです。

そもそも忠義が大切だと言われるようになったのは、戦のなくなってきた江戸の頃。
元々武士には忠義という考えはなく、ただただ自分の腕を上げたり手柄を上げたりすることが一番大切でした。
しかし戦がなくなっていくことで、その方法を失っていったわけです。
そんな武士にとっての、新たなモチベーションとなっていったのが、どれだけ心を尽くせるか?という忠義だったようです。

元々、忠義心はなくても、特定のお家にいれば、所属意識や仲間意識は当然芽生えてきますよね。
忠義の根底には、自分が育てられた、自分がお世話になった場所や、そこで交わった人々への感謝の思いがこもっていると思います。

これは現代の私たちにも通じる心ではないでしょうか?
自分が生まれ育った街や、卒業した学校などに対する思いって格別なものがあったりしませんか?
出身地や卒業校が同じ人だと分かると、急に親近感を感じたりもします。
私の周りでもある程度の年齢になってくると、故郷や母校に恩返しのようなことがしたいと言い出す人が増えてきたりもします。
これが現代の忠義だと私は思っています。

ただ、現代でも忠義が危険性を持つことがあります。
それは主君の立場、つまり上司など管理側にいる人が強制的に忠義を求めるようになることです。
それは自己犠牲心を増長させるような行為でしかありません。
忠義心とはあくまでも、お仕えする立場から自然発生的に芽生えるからこそ成り立つ美徳だということです。

それでは今日はここまでです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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