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「伏線回収」至上主義、トサカにきたぜーーっ!〜『ワンダーエッグ』再考〜

「伏線回収」という言葉がある。
おそらく小説や戯曲で使われる作劇の用語だが、近年は漫画やアニメなどに対して用いられることが多い。

端的な意味としては、「のちの展開に備えてそれに関連した事柄を前のほうでほのめかしておき、あとで明らかにすること」。

若者は猫も杓子も『ONE PIECE』読んでるこの時代。

ネット上で二周回ってイジられないターンに回った「作品考察」コンテンツで多用されることから、この「伏線回収」というワードは作劇用語の中でもひときわ市民権を得ている。


作品それ自体を詳しく知らなくても、熱心な読者たちが「伏線回収」についてツイートしているのを見たりして、その作品に興味を持つこともあるのではないか。


そんな『HUNTER×HUNTER』において、この30巻表紙絵は、『アメトーーク』で取り上げられていたこともあって非常に有名な伏線という印象がある。

表紙に描かれているキャラクターが後々の展開を示唆するようなポーズを取っている」という、シンプルながら印象的な伏線である。


細やかな計算のもとに張り巡らされた伏線には最早「美しさ」としか言えない魅力があり、作品の満足度を飛躍的に高める。

作り手からしても、上手く伏線を仕込むのは難しいだろう。
私は創作の経験が無いから分からないが、違和感なく真実やこの先の展開を示唆する事がいかに難しいことか…それくらいは想像がつく。






そんな「伏線回収」、私は大嫌いである。




いや、厳密に言えばそうではない。



「伏線回収」を異様にもてはやすやつらが作り出した「伏線第一」みたいな風潮が、俺はイヤでイヤでたまらない。




先述した『HUNTER×HUNTER』30巻みたいな伏線って、狂喜乱舞といった態で持ち上げるほどものすごい演出なのだろうか。


もちろん(何度でも繰り返すが)伏線回収自体は、物語に起伏と巨大なカタルシスをもたらしてくれる素晴らしいテクニックだ。

後に回収されそうな形で分かりやすく仕込んでおけばドラマを盛り上げるカンフル剤になり、隠喩のように控えめな仕込み方を選択しても回収という行為のサプライズ性が高まる。

その両方を巧みに組み込んだのが、
『まどか☆マギカ』だという気がしている


まさに入れておくだけ損はない、現代のエンタメ作品を作劇する際には欠かせない要素と言える。

でも、やはり個人的には一テクニックに過ぎない「伏線」を過剰に祭り上げる今のオタク達の姿勢には迎合できない。



作品内において提示された思わせぶりな要素は、分かりやすく「回収」しなければならない…そういう風に多くの人が捉えているのが窮屈でたまらない。


そういう風潮ばかり推し進めたら、創作ってのはずいぶんと不自由なものになってしまうんじゃないだろうか?

伏線を仕込む「早さ」や「回収」に囚われるあまり、伏線回収はあくまで作品にエンタメ性を与えるための一要素にすぎない、そんな当たり前の事実を忘れてはいないだろうか?


これはTVアニメ『ワンダーエッグ・プライオリティ』などの代表作で知られる、若林信監督が約二年前にしたツイート。

ご本人はリプで、あくまで「受け取る側としての疑問(葛藤)」だと注釈をつけている。
恐らくだが、こうした日常の感覚を安易な創作論と接続されたくないのだと思う。


しかしただ無視してインターネットに流すにはもったいない、あまりにも示唆に富む発言だ。
なのでこれ以降の発言は全て自分の曲解と前置きさせていただきつつ、この言葉を取り上げさせていただきたい。

若林信監督、ごめんなさい…
次回作、いつまでも楽しみにしております…


私は昨今、受け取る側が無意識のうちにこのような「答えを出す残酷さ」を製作側に強要してしまってはいないか?と思う。

エンタメにすら正答を常に求める時代だからこそ、作品内で答えを出さないどころか安易に共感すらさせない…そんな作品に「優しさ」を感じるのはおかしくない話だ。


先ほどのツイートをなさっている若林監督の作品『ワンダーエッグ・プライオリティ』は、物語構造や設定面に多くの謎を残したまま終幕を迎えた。
いわば先述したような「思わせぶりな要素」のほとんどすべてを回収しないままフィナーレを描き切った作品だ。

結果、海外ニキにまで「最終回が残念だったアニメだろ?(意訳)」と後ろ指さされる作品となってしまったのだ!俺はそれが未だに悔しくてたまらない。これが最高なのに。


この作品においてはむしろ伏線回収などしないのが自然なのだ。
このアニメは「世界観の謎を明らかにする」「意味ありげな伏線を回収する」、そんなありきたりなカタルシスに面白さの主眼を置いていない作品である。


『ワンダーエッグ・プライオリティ』は、思春期の少女たちが抱える悩みの「理解不可能」性をこれ以上なく表現した不世出の傑作である。

それでいながら、エンタメ性も忘れていない。重いドラマに挿入される突然のほんわかパート、日常会話のとりとめもなさ。
シリアスとギャグの比率はまさに黄金比で、本作が単なる前衛作に堕していないのはこうした遊び心のなせる技だ。


『ワンダーエッグ』の、「理解不可能」を表現するという難関に挑む真摯な姿勢は驚くほど一貫している。特に主人公の大戸アイの感情は、なかなかに理解が難しい。

監督自身も「どこが面白かったか、一言では言い表せないような作品」を目指していたと語っているが、その意識は作品だけでなくキャラクター描写にも表れているように感じられる。


この作品を通じて視聴者は要所要所でキャラクターを理解できたような、一転して置いていかれるような、ふわりとした感覚を味わう。

まるで絆を結んでもすぐに消えてしまう、
本作における異世界の女の子のよう


『ワンダーエッグ』は「伏線回収」や「感情移入」に代表される安易な創作のカタルシスを静かに蹴り飛ばす事によってのみ、成立する作品とすら言えるだろう。

常に視聴者をキャラクターへの「理解」と「不理解」の間で揺らすこの作品の在り方は、若林監督が言及した「残酷さ」からは最も遠い。

もちろん、今日語られがちな「親切さ」からも遠いわけだけれど。でも個人的にはどんな作品よりも優しい作品だと感じている。

こういう作品に私は心を揺さぶられる。
エンタメであることを捨てず、それでいて安易な快楽に走らない姿勢は痺れるのだ。



「伏線回収」は素晴らしいインパクトと、カタルシスを与えてくれる手法である。そこを否定する気は毛頭ない。

だが「伏線回収」をあまりに持ち上げて信仰するあまり、その快感以外を感じられない残酷な視聴者になってはいないだろうか?

少なくとも自分は「伏線」に代表される安易なカタルシスだけじゃない多種多様な快感を、『ワンダーエッグ』のような美しいアニメからこれからも受け取りたい。


この文章は、そういう祈りと宣誓に近い。




…いや、もしかしたらこのままで良いのかもしれない。「伏線回収」至上主義者がネットに蔓延り、安易にアニメを「作画崩壊」と罵る怖い人たちが存在し続けても良いのかもしれない。


そんな刺々しく早回しな世界だからこそ、『ワンダーエッグ』のような「安易に理解できない」という優しさを持った作品が、いかにも居づらそうな表情をして現れるのだとしたら。
私は、このままで良いのかも…と思う。


あの女の子もそういえば、まるでこの作品の立ち位置を体現するかのように、いかにも居づらそうな表情で画面の中を駆け抜けていたことをふと思い出す。

伏線回収や安易な解決、それがもたらす残酷なカタルシス。そうしたものをバックに、すとんと2020年代に現れた『ワンダーエッグ』。


限りなくシックを突き詰めた背景に、所在なさげに佇む鮮烈な黄色の大戸アイ。
「現世に馴染めない」感覚そのものを、若林信によって凄惨なまでに演出された少女。

大戸アイの存在こそが、
他のどんな存在よりも純粋に、
『ワンダーエッグ・プライオリティ』だった。



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