エッセイ:便所で「ときめきポポロン♪」に泣かされた
僕はお腹を壊しやすい。
寒がりというわけでもない割にお腹だけが冷えやすい&冬でもアイスをバクバク食べるせいで、腹痛とステゴロタイマン勝負の毎日。
バイトの前、いつも通り僕は少しお腹を下してしまってコンビニでお手洗いを借りた。
いてて。いててて。こりゃ"事"を済ませてもまだ少しお腹に張りが残るタイプの腹痛だぁ…
そんな事を考えながら時計を見ると、まだ出勤時間までには30分近くある。いつも不意の遅刻や準備不足が怖くて早めに出ているのが功を奏した。
お腹が痛い時は、とにかく我慢が肝要。しかし、アニメを見る余裕はない。バイト前だし、まず何よりもコンビニのトイレを24分占領するなという話。
「アニソンを2曲くらい聴いて、少し落ち着いたら通りの向かいにある違うコンビニのトイレでも借り直そう…」
そう思って再生したのが、今朝Spotifyに保存したばかりの曲だった。
「ときめきポポロン♪」
言わずと知れた『ご注文はうさぎですか??』のED主題歌で、お恥ずかしながらこのアニメを今更見始めていた私にとっては初聴(音読みすると卑猥)。
本編でTVサイズは聴いていて、その可愛らしい歌詞とあまりに萌えに全振りした映像に思わずノックアウト!
『きんいろモザイク』『ろうきゅーぶ!』など錚々たる有名萌え作品を手掛けているスタッフ陣のあまりにクールジャパン(死語)な仕事ぶりによって、凄まじく変態的な仕上がり。本当に度肝を抜かれた。
しかしアニソンというのは須く映像と手を取り合って高め合う音楽媒体。
映像がとても素晴らしい仕事ぶりだったから曲も半端なく良く聞こえていただけで、意外と単体で聴いたら普通かも?そう思って、イヤホンをはめた………
まずい、よすぎる。あまりに良い。
もうなんか腹痛とかじゃない。これは凄い。
私は1年くらい前、細野晴臣『S-F-X』と駅の便所で出会ったのを皮切りに、いい音楽とは高確率でトイレで出会う。
単純に年中腹痛すぎてトイレに入ってる時間が長いというだけかもしれないけど。
「ときめきポポロン♪」は、まさにそれに並ぶほどの衝撃体験だった。音楽的に難しいことはわからない。だが、とにかく歌詞が良い。
チノちゃん。マヤちゃん。メグちゃん。
3人の可愛いキャラクターが未来のことを期待して、「これからも一緒にいよう」と誓い合う。ただそれだけと言えばそうなんだけど、そこにはあまりにも意味が存在しすぎている。
チマメ隊という「まだ世界の複雑さと出会っていない純朴な女の子」が、恋や未来の友情といった「まだ届きそうもない夢」を高らかに歌う。
「今」のみがフィーチャーされがちな日常もの作品においてその「未来」を匂わせる行為は、視聴者に「夢」に至るまで彼女たちが経験するであろう平坦ではないであろう経緯・未来を補わせかねない。
なぜならば世界の複雑さに出会っていない頃に届きそうもない夢を漠然と持っていたのも、そのあと現実を知って夢をなんとなく軟化させたり諦めていったのも、他ならない視聴者「自分自身」だからだ。
ある意味この妄想による補填は、知らず知らずのうちにキャラクターの近くに自らを投影していることの何よりの証と言えるだろう。
しかし、私たちはチマメ隊に対して「このあと現実を知るんだろうな…」なんて無粋なことは思いもしない。ただ彼女たちが幸せになることだけを考えている。
それは未だ社会と相対してはいない、夢みがちで未熟な彼女たちが、それでも夢を叶えてくれるのではないか。そう期待を寄せるからだ。
なぜそんな期待を寄せるのか?
私は、オタクというものはアニメの萌えキャラたちに、非実在美少女に対する救いの祈りを寄せていると感じている。
それは単純にモテない自分を救いたい性的・恋愛的欲望であることもあれば、もう届かない自分の過去への祈りであることもしばしばである。
ここでの救いとはいわば、欠落の補填だ。
あの頃、何も知らないけど純粋だった自分。
何の力も無いなりに、必死に動いていた自分。
自分が夢を追っていた子供時代は、すでに死んでしまった。それを救うことは、誰かに夢を追い続けてもらうことでしかできないのだ。
そうでなければ、混じりっけのない自分の失った夢は補填できない。
大人になってからの夢を叶えるというのは、子供時代の純粋な夢を叶えることとは別ベクトルの話だ。そこには自己実現とかお金とか、そういう実利的な感覚が入り込みすぎている。
だからこそ私たちは純粋無垢なチマメ隊が
「これからも一緒にいよう」「運命は分からないけど、今は夢を見ていよう」と語る姿に…
滂沱の涙を流すのかもしれない。
叶えられなかった自分の欠落した過去を救ってくれる天使だ、と信仰を抱くのかもしれない。
一緒にいてくれる人間……
分からないことを一緒にしてくれる人間……
そういった漠然とした「包容力」への憧れはなんとなくある。
自分の場合は昔から上を目指す!系のかなり厳しめの習い事を(自ら望んだとはいえ)やっていたこともあり、せめてアニメの中では優しく何かを目指すでもない世界に憧れているのだ。
だからこそ逆に徹底してリアルな友人関係を描いた『ワンダーエッグ・プライオリティ』が刺さったりもするわけなんだけど。
とにかく、こういった「欠落」を埋めてくれる作品というのは私にとってたくさんある。
過去のnoteでも取り上げた『それ町』もそうだし、まだまだ数えきれないほど。
人間は人生の中で、必ず色んなところに欠落を持つもの。その欠落を埋めるようにして、オタクはオタクになっていく。
健全な人間ほどバトルものにハマるのは、彼らは日常的な生活の中に欠落を感じる要素がないからだろう。
甘く迂闊な推論だが、ここでは敢えてそういうことにさせてくれ。
自らの理想とあまりに乖離した自らの過去を、様々な作品と触れ合う・創作を行うことで補填していくのが文化的な「人生」なのだ。
だからこそ『レディプレイヤー・ワン』みたいに、「オタクは作品ばっかじゃなくてリアルの人生やれよなw」というようなオチは苦しい。
うるせぇ、創作を見ることでリアルの人生を補填してるんだよ……
そんなことを、セブンイレブンのトイレで思った。ドアを開けて外に出ると、店員さんが並んでいる。
気まずく会釈をして、バイトへ向かった。
僕もここで、筆を置く。
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