山岸論文のまとめ
(2020.07.09に書いたブログ記事を転記したものです)
「マイクロ・マクロ社会心理学の一つの方向」という論文を読みました。山岸俊男先生が1992年に書いた論文です。この論文が書かれたということは当時そのような視点がマイナーであった,あるいは「勢いのある若手」的な視点であったということかなと思いました。
同視点は面白く,この視点を発展させていけば現在の日本の社会心理学界は現状と違ったのだと思いますが,残念なことに,少なくとも私が感じる限り,同視点はいまだにマイナーであるように思います。
マイクロ(個人)─マクロ(社会)の二項対立,方法論的個人主義,という受け入れられない前提もありますが,同論文が示している視点は社会を考える上で必須の視点だと思いますので,備忘録的に要約しておきます。
要約
マイクロ・マクロ社会心理学の目的は,個人の社会的行動の意図しない結果としてのマクロな現象を検討することである。マイクロ・マクロ社会心理学が扱うマクロな現象の“意図しない結果”は,社会的行為の相互依存性により生じている。合理的選択理論の枠組みは,個人の行動が他者の合理的な選択のための条件として分析できるので,マクロな現象の“意図しない結果”に必須の相互依存性を分析する有効な概念的ツールになると考えられる。
マイクロ・マクロ社会心理学とは
社会現象には個人レベルでの意識や行動を越えた創発特性 emergent property としての側面がある。たとえば,経済不況という社会現象は,個人が不況を望んでいるからという説明はできず,個人の意識や行動を越えた側面を持つ。
この創発特性への理論的な対処にはさまざな立場がある。(1)マクロ・レベルの現象にマイクロ・レベルで説明することは無意味とする立場(Durkheimなどの社会学主義),(2)個人の意識や特性がマクロな社会現象の説明に不可欠とする立場(Frommや社会意識論),(3)創発特性の生じるプロセスを研究することを通して方法論的個人主義にもとづきつつ社会現象の説明を行おうとする立場。(3)の立場がマイクロ・マクロ社会心理学である。すなわち,個人の意識や特性や行動(マイクロ)から社会現象(マクロ)が生まれてくるプロセス(マイクロ・マクロ過程)を研究するのがマイクロ・マクロ社会心理学である。
行為の相互依存性と意図せざる結果
創発特性が生まれるプロセスは多様にあるので,本稿で扱う対象を行為の相互依存性にもとづく「意図せざる結果」としての創発特性に絞る。それを前提とした上で,マイクロ・マクロ社会心理学が扱う対象とその対象について詳細に説明する。なお,以下の①〜③の理解を助けるために「裸の王様」の寓話を例に添える。
① マイクロ・マクロ社会心理学の研究対象は,個々の個人の特性ではなく,特定の社会現象である。
【例】「裸の王様」で言えば,誰も「王様は裸だ」と言わないという状態。個々の見物人が「王様は裸だ」と言わないということではない。
② 特定の社会現象がそれを構成する個人の特性ないし行動の単純集計 simple aggregation として説明できる場合には,その社会現象の説明にとって必要なのは個人の特性ないし行動の説明のみであり,マイクロ・マクロ過程の分析は必要ではない。逆に言えば,個人の行動の説明が社会現象の十分な説明になりえない場合にマイクロ・マクロ過程の分析が必要となる。
【例】「裸の王様」を同調行動として扱う場合,創発特性は介在していないので,マイクロ・マクロ社会心理学による分析は不要。なぜなら,個人の特性(=同調性)によってこの現象を説明できるから。しかし,「最初に王様のパレードを通った街では,誰も王様が裸だと言わず,次に通った街では,一人の子どもが王様は裸だと叫んだため,誰もが王様は裸だというようになった」という現象は同調性によって説明できない。つまり,この社会現象(「王様は裸だ」と誰も言わない状態)は,同調性という個人行動を説明するための原理では説明できない創発特性(※)。
(※)山岸の議論に対する反論を想定し,その反論に山岸が反論しているのだが,それが痛快で個人的には面白かったです。
③ マイクロ・マクロ社会心理学の研究対象である社会現象は誰も意図しないのに「たまたま」起こってしまった社会現象である。「たまたま」とは,単なる偶然の結果という意味ではない。相互依存関係にある人々により取られた,別の意図にもとづく行動の副産物としての「たまたま」であり,その副産物の発生が相互依存関係によりもたらされた限りでのた「たまたま」で,これこそが研究対象。
【例】王様は裸だと誰も口にしないという社会現象が存在したのは,個々の見物人がその状態を生み出そうとして行動したからではない。別の理由(たとえば,自分だけ邪な心を持っていると思われるの嫌だなど)で行動した結果「たまたま」生まれた,別の意図にもとづく行動の副産物としての「意図せざる結果」。このようなことが起こるのは,お互いが他人の行動を手がかりにして自分の行動を決定しているという相互依存関係ないし相互影響関係が見物人の間に存在しているから。
マイクロ・マクロ過程分析のための条件
社会現象としての裸の王様に対してどのように意味のある説明ができるかについては,マイクロ・マクロ過程分析のための条件を考えると明らかになる。
マイクロ・マクロ過程分析のための理論にとっての必要条件は以下の2つ。
[条件①] 特定の個人の行動変化が他者の行動に与える影響が説明できなくてはならない。なぜなら,個人の行動が他者に影響を与えないのであれば創発特性は生じないし,逆に言えば,個人が互いに影響を与え合うから創発特性が生じるからである。そして,個人が他者に影響を与えることができるのは,個人の外部に表れた行動を通してのみである。したがって,マイクロ・マクロ過程分析の基礎理論に要求されるのは,ある集団・社会において一人の個人の行動の変化が他の個人の行動に与える影響についてのモデルを提供することである。
個人の行動変化が他者の行動に与える影響は以下のいずれかのかたちを取る。
(a)他者にとっての「社会的現実」の定義に影響を与える
この意味での影響関係の分析にとって,社会的認知研究の成果や象徴的相互作用研究の成果は欠かすことができないであろう。
(b)他者の行動にとっての強化子を提供する
相互依存関係を強化の関連性 contingency という観点から分析することも可能。行動主義的交換理論など。
(c)他者の行動の結果に関する条件を変化させる
ある個人の行動が変化することで他の個人にとっての「合理的選択」の条件が変化し,後者の行動そのものも変化する。このような報酬構造 incentive strucutre の関連性という観点から,相互依存関係を分析することも可能。
[条件②] マイクロ・レベルでの行動変化が集積され,集団全体における変化が生み出されるプロセスについての説明ができなくてはならない。マイクロ・マクロ過程分析にとってこの際に最も重要なのは,一個人の行動の変化が他の個人に直接与える影響のみではなく,他の個人に対して与える影響を通してそれ以外の個人(本人へのフィードバックを含む)に与える間接的影響も説明できなければならない。
予言の自己実現
相互依存関係にもとづく意図せざる結果としての創発特性の現実例としてHarrison(1976)に引用されるPlacenciaによる警官のパトロールの研究がある。
警官がパトロール中に交通違反の車を停止させる際,中流階級の白人の居住地域では,トラブルを予想せず,免許証確認と違反切符を切るだけで終わるが,少数民族の居住するゲットーでは,ドライバーとのトラブルを予想し,応援を呼ぶとともに,拳銃のカバーを外していつでも取り出せる態勢で対応する。このような態度はドライバーからの反感(警察による偏見と敵意である)と反抗的態度を生じさせる。このドライバーの反応は警官によって敵対的行動,職務執行妨害と解釈され,逮捕へとつながる。こうした事態の積み重ねが,ゲットーでのトラブルという警官の期待を確認・強化し,ゲットー住人が持つ警官による差別という期待も確認・強化される。
このような警官とゲットー住人との敵対関係は,行為の相互依存性にもとづく意図せざる結果としての創発特性の側面を持っている。警官もゲットー住民も互いに敵対関係を生み出すことを目的に行動しているのではなく,別の目的(警官:トラブルの回避;ゲットー住民:不当な扱いへの抗議)を持って行動した結果,いずれもが望まないままこの関係が生み出されている(意図せざる結果)。
ここで注意しなくてはならないのは,個人の持つ敵意が,たんにその個人の態度やスキーマにもとづくだけではないという点である。個人の敵意は,相手が実際に自分に対して敵意を持っているという現実にもとづいている。つまり,敵対関係は頭の中に存在しているだけでなく,現実の行動の中に存在している(ゲットー住人に対する警官の期待あるいは警官に対するゲットー住人の期待は頭の中にある「偏見」あるいは周囲の評判などの社会的現実だけでなく,現実(日常的な接触)のある程度正確な反映でもあるということ)。
予言の自己実現を初めて公式に用いたMerton(1957)も客観的現実の重要性を指摘していた。マートンの議論では,白人労働者の黒人労働者に対する差別は,たんに偏見に由来するものではなく,「労働者の裏切り者」(スト破り)としての黒人労働者の現実に由来するものとされている。重要なのは黒人労働者がスト破りに使われるという事実であり,またその事実が,白人労働者による黒人に対する差別によってもたらされたものであるという事実である。この事実を抜きにして,白人の黒人に対する偏見の形成をいくら社会心理学的に研究しても,この事実そのものを説明することはできない。
マートンの例では,社会現象としての差別が存在するのは,差別が実際に存在しているからである(黒人を組合に加入させない=差別→黒人が正規の職に就くのが困難となる→黒人がスト破りに雇われる→黒人は労働者の裏切り者である→労働者の裏切り者である黒人は組合に加入させない=差別)。差別が存在するのは差別が存在するからだという説明は同義反復であり,現在の社会心理学で通常用いられている因果論的な思考様式からすれば,意味がない。しかしマイクロ・マクロ社会心理学の観点からすれば,この同義反復は論理の破綻を意味しているのではなく,説明すべき社会現象の特性を反映するものである。ここで重要なのは,このような「自己再生的」な社会現象を説明するにあたって,個人行動に説明を還元する以外にどのような論理が可能かということである。
マイクロ・マクロ社会心理学のアプローチでは,「ある一定の行動原理にもとづいて個人が行動する場合に,時間tにおける個人行動の分布の初期値に応じて,t+1における行動の分布が予測できる場合,この社会現象の説明が行われた」と考える。この際,t+1の行動の分布の予測のために,マクロ・レベルでの変数のみを用いると,純粋なマクロ社会学的分析となる。逆に,tにおける行動の分布の初期値がt+1での個人の行動に与える影響を無視して,個人の特性の分布のみによってt+1での行動の分布を予測するとすれば,個人還元的な説明となる。tにおける行動の分布がt+1における個々の個人の行動に与える影響がマイクロ・マクロ過程の主要な部分を構成しており,このプロセスにもとづくt+1における行動の分布の予測を行うためのモデルを作ることが,マイクロ・マクロ社会心理学によって社会現象の説明を行うということである(※)。
(※)この段落は言わんとしていることがうまく読み込めず,ほとんど要約できていません。おそらく合理的選択理論を知ればもっと理解できると思います。そもそもこの節はどの段落も結構重要で,あまり要約しませんでした。
合理的選択理論の役割
このようなマイクロ・マクロ過程の分析にとって必要なのは,①当該の社会現象の説明に際して有効な個人の行動原理に関する理論,②個人の行動の分布のどのパラメターが,個々の個人の行動にどのような影響を与えるかについての理論の2つ。この2つの側面を同時に満たすもっとも「使いやすい」理論が合理的選択の理論。その理由は,個々の個人の行動の目標(ないし個人の重視する価値)が与えられれば,行動の分布の初期値を,個人が目標達成のための合理的選択を決定する際の環境条件として用いることが比較的容易にできるから。
この理由から,合理的選択理論は個々の個人の行動の説明にとっては限界があるけれども,マイクロ・マクロ過程分析のための理論,あるいはマイクロ・マクロ社会心理学にとって果たす役割としては非常に有効性があると筆者は考えている。
合理的選択理論にもとづくマイクロ・マクロ過程分析の最も優れた例の一つとして,経済学者Thurow(1975)による「統計的差別」の分析がある(※)。この議論が差別の理解に有用であると考えるなら,差別以外の社会現象の理解においても,マイクロ・マクロ社会心理学的視点は有効であるとわかるであろう。
(※)これは結構面白いし,考えさせられるので,詳細はいずれ別記事で取り上げます。
マイクロ・マクロ理論としての社会意識論の限界
本稿で提唱されているマイクロ・マクロ社会心理学の目的は,個人行動ないし個人の認知,態度,意図,感情,選好などの説明にあるのではなく,集団ないし社会現象の説明にある。また,マイクロ・レベルでの個人の行動原理と無縁になされる社会現象の説明を拒否している。これらの点は1960年代の日本社会心理学の一つの中心をなした社会意識論と共通している。
しかし,両者には,相互依存関係が持つ理論的役割の違いという根本的な違いがあり,この違いにより社会意識論は1970年代以降に理論的発展が停滞してしまった。すなわち,社会意識論は相互依存関係によって「意図せざる結果」として社会現象が生み出されるという認識を欠いていたため,個人の行動を説明するための原理(個人特性→行動)に,社会現象の説明のための原理(共有された個人特性→社会現象)を還元してしまい,その結果,理論的に衰退したと考えられる。
結語
本項では,マイクロ・マクロ社会心理学が何をなすべきか,また原理的に何が可能かについて述べられた。ただし,具体的な方法は大枠が提示されただけである。この枠組みの有効性は,今後の研究次第である。
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