戸田真琴さんがTwitterをやめてしまうらしい
戸田真琴さんがTwitterをやめてしまうらしいです。別に彼女のアカウントをフォローしているわけではないし(素晴らしい文章の数々はこのnoteや、以前のブログで読めるよ)、やめること自体はどうでもいいのだけれど。ただ、
SNSを取り巻く空気感は変化していったように感じます。それも、悪い方に。
これは常日頃私も思っていたことで(気付いたら初めてTwitterのアカウントを作成してから8年が経とうとしていた)、だんだんTwitterは私が使い始めたころとは別物になっていった気がする。
その原因の一つにスマホの普及があったと思う。誤解を恐れずに言えば、スマホによって質の悪いユーザーが増えた、気がする。自分のことを質のいいユーザーだなんてそんな驕り高ぶったことを言うつもりではないが、要するに今までインターネットに触れていなかった人種がアカウントを持ち始めたということである。今や小学生ですらスマホを持っていて当たり前の時代らしい。今まであまりインターネットに(とりわけ、姿の見えない人間と関わるなにかしらに)関わることのなかった、いわば”半年ROMって”なかった方々が急にTwitterを始めた、みたいな。
私が初めてインターネットで”人”に触れたのは小学生のころ、ワザップを通じてだったかもしれない。あの頃は画面越しの相手を実在する人間だと思う意識があったかどうか分からないけれど、うごメモで「死ね」がいくつか羅列されたコメントが来たときには(クソみたいなものをテストで投稿した)確かに傷ついていた。それから掲示板を始め、会ったことのない人と仲良くなったあたりからインターネットにおける発言に気をつけるようになったと思う。
それからTwitterを始めたわけだけど。掲示板では会話ベースで行っていた情報の発信を、誰に向けるわけでもなく”つぶやき”としてできるところに面白さを感じハマっていった。他のユーザーと関わることもできるが、あくまで”つぶやき”の延長線上で、ゆるいつながりができたらいいなぁと思っていたし事実そうだったと思う。
スマホの普及がSNSをいつでもどこでもにしてしまった。いつでもどこでも気軽に他者とつながれるようになって、Twitterはちょっと変わってきたと思う。SNS疲れなんて言葉はなかった。正直アホだと思う。娯楽として使っているのにそれに悩まされるなんて。バズったツイートへの(バズるなんて言葉も知りませんでした)リプライはいつの間にかコメントになっていた。リプライとか引用RTとか相手に通知行くの知らないのかな。
”上坂すみれチャレンジ”なるものも流行っていた。説明するのも嫌なくらい気分が悪くなることなんだけれど、声優の上坂すみれさんのツイートに対して非常に悪質なリプライを送りつけ、ブロックされるかどうか試しているゴミが大量にいた。何でブロックされたいかというと、ブロックするために相手が自分に対してアクションをしてくれた、という好意の裏返しらしい。意味分かんないし気持ち悪いから死んでほしい。そんなことがあり、上坂すみれさんもTwitterをやめてしまいました。同様の一件がありながら、似たような理由でまた一人Twitterをやめなくてはならない方が出てしまったのが悲しい。
大事にされた思いは、受け取られた先でも、消費されません。
画面の向こうの誰かに、散々食い尽くされた挙句、物足りないと言って唾を吐かれるような、そんな悲しい消費のされ方を黙って耐え抜くことは、もうやめることにします。私の理想の死に方はしばらく前から、この世界の理不尽と、私が私であるがゆえに生じる摩耗によってボコボコにされても誰にも助けを求めず、独りでビルの隙間から青空を見上げて息絶えることでした。誰に殴られても言い返さない、ということが、美学の一つだったのです。
彼女の記事からの引用です。やっぱり”消費”というワードが重要かもしれない。彼女の文脈とは異なるかもしれないけれど、大量の情報が一瞬のうちに消費されるようになったと思う。これもスマホだったりインターネットがあまりにも身近で当たり前になったことによって。情報の発信も消費も即座になされるのでいちいち丁寧に吟味も精査もしない、してる暇なんてない。だってそんなことしてる間にそれが古くなるから。だからその、指一つで、一秒でできてしまう危うさにつながるんだろう。
承認欲求って最近よく聞く言葉になったと思う。もちろんずっと前からあった言葉でマズローの自己実現理論のうちの一つなんだけど。SNSによって接する他者も増え、時間も長くなった。それだけ自分のことを承認されやすくなったから承認中毒になるのもしかたない。私もどれだけまわりの人が自分に興味あるのか、あるいはないのか気になる。一般的にイメージされるフォロワーやいいねの数だけじゃなくて、好きな相手に卑猥なリプライを送り、ブロックというアクションを待つのも広い意味では承認欲求から来るものなのかなぁって思う。キモいオタクは愚かだから、推しに存在を認められるだけで承認欲求が満たされるんだと思うんです、真っ当に勝負してもゴミみたいな自分じゃ相手にされないから、好きな女の子にいじわるをしてしまう小学生のような幼さで接してしまうだけなんです、って誰がそんなので納得するか。
スマホをよく使う若者の集中力が低下しているなんて話を耳にする。YouTubeの動画は数秒に一度気を引くような仕掛けをしないと見てくれないって。それだけ、情報が溢れすぎた。凄まじいスピードで新たな、より刺激の高いものを求めてしまった。で、また話が戻ってくるんですけれど。芸能人に向けて送る心ないリプライは第三者にも見えるわけで、よりRTやいいねがもらえる”面白い”、”刺激的な”リプライをしようとか思っているんだろう、どうせ。
Twitterなんか無理して続ける必要ないねマジで。
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