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後藤新平こぼれ話~検疫のパートナー陸軍の児玉源太郎と、医師北里柴三郎

たった2か月で!帰還兵23万人のコレラ検疫を実現。偉業を成し遂げた後藤新平ですが、一緒に頑張った仲間がいました。


1894(明治27)年、日清戦争。当時大陸ではコレラが蔓延しており、罹患した兵士が日本各地に帰郷しては、大パンデミックに!!

陸軍次官の児玉源太郎は、これを阻止すべく検疫をしなくてはと考えていました。そのときに候補になったのが、後藤。1877(明治10)年、西南戦争でコレラ患者の治療をしたことから適任とされました。

児玉は後藤に、経費はいくらかかるか質問。
後藤「ざっと、100万円です」
当時としてはかなりの金額です。
児玉「では150万円用意します。完璧な検疫を行ってください」


「大風呂敷」と呼ばれる後藤もビックリ!でも、彼のヤル気に火が点いたのか、たった2か月で広島県・山口県・大阪府の3つの離島に400棟もの検疫施設を作りました。

検疫の準備は整ったものの、後藤には心配が。勝利で気が立ち、早く帰郷したいと思っている兵士(←パリピ状態)が検疫に従ってくれるのか?


児玉「その辺は、まかせておけ!」
従軍し先に帰郷された宮様に依頼をして、検疫第1号になっていただきました。おかげで大きな混乱もなく、検疫が済み船舶687隻、23万人余りの兵士を検疫し国内への発生を阻止しました。

検疫の仕事が終わり、後藤は児玉にあいさつに行きました。
児玉「お疲れ様。これは君の月桂冠だよ」
と、手紙の詰まった箱を渡します。
中身は、検疫や後藤に対する誹謗中傷の嵐。それを児玉は後藤の目に触れさせないようにし、検疫に専念できるようにしました。恐らく、児玉も面と向かった批判も全て受けたのでしょうね。
それにしても。昔も今も、陰で悪口を言うのは一定数いるものです。暇なんだろうな。

更に言うと、この検疫に衛生技術の面で協力したのが、細菌学者の北里柴三郎。新1000円札の顔です。

その後も後藤と児玉の良好な関係は続きます。
1906(明治39)年、後藤は児玉に、南満州鉄道株式会社初代総裁を打診されますが、即答できず「よく考えます」と答えました。しかしその夜児玉は急死!悲しみと同時に使命感が湧き起こり、就任を決意しました。
この後も後藤は精力的に活動。政治家としても手腕を発揮します。


「児玉さん、私は頑張りますよ」そんな思いを抱き続けていたのかな、と思います。


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