見出し画像

亡き父の残した家訓が光るぜ2020

5年前に亡くなった父の残した我が家の家訓は
「騒ぐな」であった。

子供のころは、兄妹3人でギャアギャアやっていても、母が父の車の音を聞いて「あっ、お父さんが帰ってきたよ!」というと、ピタッと静かにしなければならなかった。

お父さんが怒るから。
お父さんが怒るから、○○しちゃだめ!ということがたくさんあった。
その我が家の家庭内憲法第一条とも言える大原則が「騒ぐな」だった。

「騒ぐな」のほかにも、いろいろとよく分からないこだわりも多い人で、母はずいぶん苦労した。

子煩悩なタイプではなかった。「不自由はさせない」「安全確保」「勉強はしておいた方がいい」それ以外は各自がんばれ、という感じで、何も聞かれることなく、指示もなく、かなり放任された。

***

父の家訓「騒ぐな」は、その後、兄にがっちりと受け継がれており、兄一家四人、大学生の甥っ子・姪っ子を含めた落ち着きっぷりは見事だ。

一方、私は離婚したり、太平洋を何度も行ったり来たりしたり、アメリカ人と再婚したりと、家族内で一番”から騒ぎ”を起こしたので、だいぶ父はあきれていたことだろうと思う。

***

寡黙で人嫌いな人だとしか思っていなかった父の意外な一面が、自分が年を取るにつれ、少しずつ見えてきた。後年、兄が父の会社を継ぎ、いろいろな父の姿を目撃するようになったのが大きい。「おやじ、すげえ電話魔だった」とか「同窓会の幹事を嬉々としてやってる」とかのチクりがちょいちょい入ってくる。「マジで!?お父さんが!?」と、珍しい野生動物の新しい生態が発見されたかのような驚きを味わった。

死ぬ間際はなにか、吹っ切れたかのように快活な感じになり、私がアメリカ人の彼氏(今の夫)を初めて父の入院していた病院に連れて行ったときには、いきなり英語をべらべら話しはじめて、死の床でまで家族全員をびっくりさせた。夫の英語のジョークに誰よりも先に笑ったりして、どれだけ実力隠してたんだよ、と心底驚いた。その数年前に、私に会いにハワイに来た時には、全部わたしに通訳させて、一ミリも自分でしゃべらなかったくせに。

***

それにしても、このトホホ感満載の2020年。
世界中が、ああでもない、こうでもないと騒ぎたて、バーカ、お前がバーカみたいな罵り合いの言葉ばかりが耳に入ってくるこの奇妙な日々の中で、「騒ぐな」以外に大事な教訓なんかいっこもないだろ、と思う。

今はやりの自己肯定感を高めるような子供へのトークなど一切なかった父だが、ずっとずっとお守りのように、父の「騒ぐな」を心の中で唱えている。

それで、まあ何とか乗り越えてみますよ、お父さん。



(鹿児島出身で、血液の半分が焼酎だった父にちなみ、西郷さん画像をフォトギャラリーからお借りしました。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?