贈与で紡ぐ社会 1/3「世界は贈与でできている」
贈与理論の系譜と現代的展開
本日からは近内悠太さんの著書「世界は贈与でできている」を解説していきます。贈与という言葉は聞き馴染みがないかもしれません。贈与の概念は、人類学や社会学、哲学の分野で長年にわたり研究されてきました。その起源は、フランスの社会学者マルセル・モース(1872-1950)の画期的な著作『贈与論』(1925)に遡ります。モースは、ポリネシアやメラネシア、北米先住民社会などの「未開社会」における贈与の習慣を分析し、贈与が単なる物質的交換ではなく、社会的紐帯を形成・維持する複雑な制度であることを明らかにしました。
モースの贈与理論の核心は、贈与には「与える義務」「受け取る義務」「お返しする義務」という三つの義務が存在するという洞察です。この三つの義務の循環が、社会的結束を生み出し、維持するのです。モースは、この贈与の循環を「全体的社会的事象」と呼び、経済、法律、道徳、宗教、芸術などの様々な社会的側面が贈与の中に凝縮されていると主張しました。
贈与理論の根幹
モースの理論は、後の人類学者や社会学者に多大な影響を与えました。例えば、フランスの人類学者クロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)は、モースの贈与理論を構造主義的に再解釈し、贈与を社会構造を形成する基本的な交換システムとして位置づけました。レヴィ=ストロースは、婚姻関係を一種の贈与システムとして分析し、異なる集団間の女性の交換が社会的同盟関係を形成する基盤となっていることを示しました。
この構造主義的アプローチは、贈与を単なる個人間の行為ではなく、社会全体を構造化する原理として捉える視点を提供しました。レヴィ=ストロースは、『親族の基本構造』において、次のように述べています。
この洞察は、贈与が単なる物質的な交換を超えた、社会的関係性の構築と維持の機能を持つことを示唆しています。
一方、アメリカの経済人類学者カール・ポランニー(1886-1964)は、モースの贈与理論を経済システムの分析に応用しました。ポランニーは、『大転換』(1944)において、市場経済が社会に「埋め込まれている」ことを指摘し、前近代社会における経済が互酬性(贈与)、再分配、交換という三つの原理に基づいていたことを明らかにしました。ポランニーの理論は、現代の市場経済システムを相対化し、オルタナティブな経済システムの可能性を示唆する点で重要です。
ポランニーは、経済を社会から切り離された自律的なシステムとして捉える新古典派経済学の前提に異議を唱え、次のように主張しました。
この「埋め込み」の概念は、贈与が経済活動の基盤にある社会関係性を維持する重要な機能を持つことを示唆しています。
贈与論についての批判
近年では、フランスの人類学者モーリス・ゴドリエ(1934-)が『贈与の謎』(1996)において、モースの贈与理論を批判的に発展させています。ゴドリエは、贈与には「譲渡可能なもの」と「譲渡不可能なもの」があると指摘し、後者が社会的アイデンティティや神聖性の源泉となっていることを明らかにしました。この洞察は、現代社会における贈与の意味を考える上で重要な視点を提供しています。
この視点は、贈与が単なる物質的な移転ではなく、人格的な要素を含む深い社会的相互作用であることを示唆しています。
現代哲学における贈与の再解釈
20世紀後半以降、贈与の概念は哲学の分野でも活発に議論されるようになりました。特に、フランスの哲学者ジャック・デリダ(1930-2004)による贈与の脱構築的解釈は、贈与の概念に新たな光を当てました。
デリダは、『時間を与える』(1991)において、「純粋な贈与」の不可能性と必要性について論じています。デリダによれば、贈与が贈与として認識された瞬間に、それは交換の論理に取り込まれてしまい、もはや純粋な贈与ではなくなってしまいます。つまり、真の贈与は、贈与として現前しない逆説的な性質を持つのです。
この逆説的洞察は、贈与の本質的な「不可能性」を示唆すると同時に、その「必要性」をも示唆しています。なぜなら、純粋な贈与の不可能性にもかかわらず、私たちは常に贈与の可能性を追求し続けなければならないからです。
デリダの贈与論は、贈与を経済的な循環や交換の論理から切り離し、倫理的な次元で捉え直す試みとして理解することができます。彼は、贈与の「不可能性」を通じて、私たちの社会的関係性や倫理的責任の根源的な次元を探求しているのです。
デリダの贈与論は、フランスの哲学者ジャン=リュック・マリオン(1946-)によってさらに発展されました。マリオンは贈与を「現象学的還元」の対象として分析し、贈与が主体と客体の二元論を超えた「飽和した現象」であることを主張しました。マリオンによれば、贈与は与える者と受け取る者の関係性を超えた「第三項」として現れるのです。
この視点は、贈与を単なる社会的行為や経済的交換としてではなく、存在論的な次元で捉える可能性を示唆しています。
これらの現代哲学における贈与の再解釈は、贈与の概念を単なる社会的制度や経済的行為を超えた、存在論的・認識論的な次元に引き上げました。この視点は、近内悠太氏の『世界は贈与でできている』における贈与の捉え方にも影響を与えていると考えられるでしょう。こうした贈与の再解釈について、あなたはどのように贈与を捉えるでしょうか。
資本主義社会における贈与の位置づけ
現代の資本主義社会において、贈与はどのように位置づけられるのでしょうか。一見すると、利潤追求を至上命題とする資本主義と、見返りを求めない贈与は相容れないように見えます。しかし、近内氏が指摘するように、贈与は資本主義の「すきま」に存在し、重要な役割を果たしています。
この点について、アメリカの法学者ルイス・ハイド(1945-)の『ザ・ギフト』(1983)における洞察が参考になります。ハイドは、芸術や学問における創造性が「贈与の経済」に基づいていることを指摘し、次のように述べています。
ハイドの洞察は、資本主義社会においても、創造性や革新性の源泉が贈与的な関係性にあることを示唆しています。この視点は、知識経済やクリエイティブ産業の重要性が増す現代社会において、特に重要です。
ハイドは、市場経済と贈与経済の関係について、次のようにも述べています。
この指摘は、贈与が資本主義社会の「すきま」に存在するという近内氏の主張と呼応するものです。
また、フランスの社会学者ピエール・ブルデュー(1930-2002)の「象徴資本」の概念も、資本主義社会における贈与の役割を理解する上で有用です。ブルデューは、経済資本だけでなく、文化資本や社会関係資本、象徴資本といった非経済的な資本の重要性を指摘しました。贈与は、これらの非経済的資本を蓄積・交換する重要な手段となっているのです。
この視点から見ると、贈与は単なる物質的な交換ではなく、社会的認知や威信を獲得するための戦略的な行為としても理解することができます。
さらに、イタリアの哲学者アントニオ・ネグリ(1933-)とアメリカの文学理論家マイケル・ハート(1960-)は、『コモンウェルス』(2009)において、「コモン」(共)の概念を提唱し、資本主義を超える新たな社会システムの可能性を示唆しています。彼らの「コモン」の概念は、贈与的な関係性に基づく社会的協働の重要性を強調しており、資本主義社会における贈与の新たな位置づけを示唆しています。
この「コモン」の概念は、贈与を単なる個人間の行為ではなく、社会全体の富を生み出す協働的なプロセスとして捉え直す可能性を示唆しています。
贈与の意義を再考するために
近内さんの『世界は贈与でできている』は、これらの先行研究の知見を踏まえつつ、現代日本社会における贈与の意義を再考しようとする試みと位置づけることができるでしょう。近内さんは、贈与が単なる経済外的な現象ではなく、資本主義社会の根底に存在する重要な原理であることを示唆しています。
このような贈与の再評価は、新自由主義的な資本主義の限界が指摘される現代において、特に重要な意味を持ちます。贈与の原理に基づいた社会関係や経済活動の再構築は、より持続可能で包摂的な社会システムを構想する上で、重要な視座を提供するものと言えるでしょう。
「世界は贈与でできている」は、これまで取り上げてきた哲学的・社会学的な贈与論の系譜を踏まえつつ、現代日本社会の文脈に即して贈与の意義を再考しようとする試みとして評価することができます。彼の議論は、贈与を単なる慣習的な行為や経済外的な現象としてではなく、社会の根底に存在する重要な原理として捉え直すことで、現代社会の諸問題に対する新たな視座を提供していると考えられます。
明日は贈与論におけるテクノロジーとの関連性について考えていきます。