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「死に至る病」における絶望の概念と分析 "死に至る病 2/4"

 私が小学生の頃に出会い衝撃を受けた「死に至る病」を解説していきます。小学生の頃は全く理解しきれてなかったと毎年読む度に気づきつつ、今回ははじめての解説に挑んでみます。これまでの記事の中ではかなり難しい内容になると思いますが、誤っている点などあれば是非コメントで教えてください!(過去分は下記です)

絶望の定義と本質

 キェルケゴールは「死に至る病」において、絶望を単なる感情的な状態ではなく、人間存在の根本的な構造に関わる問題として定義しています。彼は絶望を「自己関係の病」として捉え、以下のように述べています。

「絶望とは自己のうちなる不均衡である。しかしそれは、無限なものと有限なもの、永遠なものと時間的なもの、自由と必然性との総合としての関係が、自己自身に関係することにおいて不均衡になっている状態である。」

キェルケゴール『死に至る病』

この定義は、人間存在の複雑性を浮き彫りにしています。キェルケゴールにとって、人間は有限と無限、時間的なものと永遠的なもの、必然性と自由といった対立する要素の総合体であり、その均衡を保つことが自己実現の鍵となるのです。

哲学者の斎藤慶典は、この絶望の定義について次のように解説しています。

「キェルケゴールの絶望論は、人間存在の根源的な二重性、すなわち有限性と無限性の緊張関係を鋭く描き出している。この緊張関係こそが、人間を絶えず絶望の危機に晒すと同時に、真の自己実現への可能性を開くものなのである。キェルケゴールにとって、絶望はただ克服されるべき否定的な状態ではなく、むしろ自己の真の姿に気づくための契機として捉えられているのだ。」

斎藤慶典

絶望の本質について、キェルケゴールは以下の重要な特徴を指摘しています。

  1. 普遍性:キェルケゴールは、すべての人間が潜在的に絶望の状態にあると考えています。彼にとって、絶望していないと思っている状態こそが、最も深刻な絶望の形態なのです。

  2. 自覚の度合い:絶望には、無自覚的なものから高度に自覚的なものまで、様々な段階があります。キェルケゴールは、自覚の度合いが高まるほど、絶望の深刻さも増すと考えています。

  3. 霊的な死:絶望は、真の自己を実現できない状態、すなわち霊的な意味での「死」を意味します。キェルケゴールは、この「死に至る病」が物理的な死ではなく、「死ぬことができない」という永続的な苦悩の状態であると述べています。

  4. 弁証法的性質:絶望は、自己の二重性(有限性と無限性など)の不均衡から生じますが、同時にその不均衡を認識し、克服するための契機でもあります。

キェルケゴール研究の権威であるアラステア・ハニー(Alastair Hannay)は下記のように述べています。

「キェルケゴールにとって、絶望とは単なる感情的な状態ではなく、人間存在の構造的な特徴である。それは、自己が自己自身に対して適切に関係することができない状態を指す。キェルケゴールの分析によれば、この不適切な自己関係は、人間が有限性と無限性、時間性と永遠性、必然性と可能性といった対立する要素の総合として存在していることに起因する。絶望はこの総合の失敗から生じるが、同時に、真の自己実現への可能性をも内包している。」

アラステア・ハニー(Alastair Hannay)

絶望の諸形態

 キェルケゴールは、絶望を以下の三つの主要な形態に分類しています。

  1. "自己を持たないことの絶望"(または"絶望的に自己自身でありたくないこと")は、自己の可能性や責任から逃避する態度を指します。

  2. "絶望的に自己自身でありたいこと"は、自己の限界を認めず、自力で完全な自己を確立しようとする態度を表します。

  3. "絶望的に自己自身であろうとすること"は、自己の否定的な側面(罪や弱さなど)を絶対化し、そこから抜け出せないと考える態度を指します。

これらの形態は、自己と自己の可能性との関係の歪みを表現しています。以下、各形態についてより詳細に見ていきましょう。

自己を持たないことの絶望

この形態の絶望は、自己の可能性や責任を拒否し、他者や外的な要因に自己を委ねてしまう状態を指します。キェルケゴールは、この形態の絶望を以下のように細分化しています:

a) 無限性と可能性の絶望:現実性を無視し、空想や抽象的な可能性の中に逃避する状態。
b) 有限性と必然性の絶望:自己の無限の可能性を否定し、現実の制約に閉じこもる状態。
c) 非本来性の絶望:社会的役割や他者の期待に自己を同一化し、真の自己を喪失する状態。

キェルケゴール研究者のMerold Westphalは、その著書『Kierkegaard's Concept of Faith』(Eerdmans, 2014)で、この絶望の形態について次のように解説しています。

「『自己を持たないことの絶望』は、現代社会においてより一層顕著になっている。消費主義や大衆文化の中で、人々は自己の本質的な可能性を見失い、外的な基準や期待に従って生きる傾向がある。キェルケゴールの分析は、こうした現代的な自己喪失の問題を先取りしているのだ。」

Kierkegaard's Concept of Faith

絶望的に自己自身でありたいこと

 この形態の絶望は、自己の限界を認めず、自己の力だけで自己を確立しようとする試みを指します。キェルケゴールはこれを「反抗の絶望」とも呼んでいます。この絶望の特徴は以下の通りです。

a) 自己の有限性の否定:自己の限界や弱さを認めようとしない。
b) 神との関係の拒否:自己を絶対化し、神や超越的なものとの関係を拒否する。
c) 倫理的な自己実現の試み:道徳的完全性を通じて自己を確立しようとする。

キェルケゴール研究者のJohn D. Caputoは、その著書『How to Read Kierkegaard』(W. W. Norton & Company, 2007)で、この絶望の形態について以下のように述べています。

「『絶望的に自己自身でありたいこと』は、現代の個人主義的な自己実現の欲求と深く結びついている。しかし、キェルケゴールが指摘するように、この試みは必然的に失敗に終わる。なぜなら、真の自己実現は、自己の限界を認識し、それを超越する何かとの関係の中でのみ可能だからだ。この洞察は、現代の自己啓発文化への鋭い批判となっている。」

How to Read Kierkegaard

絶望的に自己自身であろうとすること

 この形態の絶望は、自己の否定的な側面(罪や弱さ)を絶対化し、そこから抜け出せないと考える状態を指します。キェルケゴールはこれを「弱さの絶望」とも呼んでいます。この絶望の特徴は以下の通りです。

a) 罪の絶対化:自己の罪や弱さを取り返しのつかないものと考える。
b) 赦しの拒否:神の赦しや自己の可能性を信じられない。
c) 閉じた内面性:自己の否定的な側面に閉じこもり、外部との関係を断つ。

キェルケゴール研究者のSylvia Walshは、その著書『Kierkegaard: Thinking Christianly in an Existential Mode』(Oxford University Press, 2009)で、この絶望の形態について次のように分析しています。

「『絶望的に自己自身であろうとすること』は、キェルケゴールの罪の概念と深く結びついている。この絶望は、人間が自己の罪深さを認識しながらも、その状態から抜け出す可能性を否定する態度を表している。キェルケゴールにとって、この態度こそが最も深刻な罪なのだ。なぜなら、それは神の赦しの可能性を拒否することに等しいからである。」

Kierkegaard: Thinking Christianly in an Existential Mode

絶望の深化と自覚の度合い

キェルケゴールは、絶望の深さが自覚の度合いと密接に関連していると考えています。彼は絶望を以下のように段階分けしています。

  1. 無自覚的絶望:自己が絶望状態にあることすら気づいていない状態。

  2. 自覚的絶望:自己の絶望を認識しているが、その原因や本質を理解していない状態。

  3. 悪魔的絶望:自己の絶望を完全に認識し、それを意図的に維持しようとする状態。

キェルケゴール研究者のM. Jamie Ferreiraは、その著書『Kierkegaard』(Wiley-Blackwell, 2009)で、絶望の深化について次のように述べています。

「キェルケゴールにとって、絶望の深化のプロセスは、同時に自己認識の深まりでもある。無自覚的絶望から自覚的絶望へ、そして悪魔的絶望へと至る過程は、自己の本質的な構造と、神との関係における自己の位置をより深く理解していく過程でもある。皮肉なことに、最も深い絶望の状態は、同時に救済の可能性が最も高い状態でもあるのだ。」

M. Jamie Ferreira『Kierkegaard』

絶望と罪の関係

 「死に至る病」の第二部では、絶望が罪として再解釈されています。キェルケゴールにとって、罪とは単なる道徳的な過ちではなく、神との関係における自己の歪みを意味します。彼は罪を以下のように定義しています。

「罪とは、神の前で、絶望的に自己自身でありたくないこと、あるいは絶望的に自己自身であろうとすることである。」

キェルケゴール『死に至る病』

この定義は、罪が本質的に絶望と同じ構造を持つことを示しています。違いは、罪が明確に「神の前で」という文脈に置かれていることです。

絶望の克服:信仰と自己実現

 キェルケゴールにとって、絶望の克服は単なる心理的な問題解決ではありません。それは、人間存在の根本的な変容を必要とする霊的な旅路なのです。彼は、この克服の道筋を「信仰」という概念を通じて描き出しています。

信仰は、キェルケゴールの思想において中心的な位置を占めています。しかし、ここでいう信仰は単なる教義の受け入れや儀式の遵守ではありません。それは、自己の有限性を認識しつつ、同時に無限なるものとの関係を築く実存的な飛躍を意味します。キェルケゴールは次のように述べています。

「信仰とは、自己が自己自身であり、かつ他者のうちに自己の根拠を置くときの、自己の透明な状態である。」

キェルケゴール『死に至る病』

この信仰による絶望の克服は、同時に真の自己実現への道でもあります。人間は、自己の有限性と無限性の緊張関係を受け入れ、それを創造的に生きることで、真の自己となることができるのです。

絶望と実存の関係

キェルケゴールの絶望論は、後の実存主義哲学に大きな影響を与えました。特に、人間の実存的状況の分析という点で、キェルケゴールの思想は先駆的でした。

実存主義哲学者のジャン=ポール・サルトルは、その著書『存在と無』(1943年)で、キェルケゴールの絶望概念を発展させ、「不安」や「嘔吐」といった概念を提示しました。サルトルは次のように述べています。

「人間は自由の刑に処せられている。なぜなら、一度創造されてしまえば、人間は自分の行為のすべてに責任を負うからだ。」

サルトル『存在と無』

この言葉は、キェルケゴールの絶望概念、特に「自己を持たないことの絶望」と深く結びついています。両者とも、人間が自己の可能性と責任を引き受けることの困難さを指摘しているのです。

絶望と現代社会

 キェルケゴールの絶望論は、19世紀に書かれたものでありながら、現代社会の問題を理解する上でも重要な視座を提供しています。特に、現代社会における自己疎外やアイデンティティの問題は、キェルケゴールの絶望論と深く関連しています。

以前も引用した社会学者のジグムント・バウマンは、その著書『リキッド・モダニティ』(2000年)で、現代社会における自己のあり方について次のように指摘しています。

「現代社会では、個人のアイデンティティは常に流動的で不安定なものとなっている。人々は、消費や表面的な人間関係を通じて一時的な満足を得ようとするが、それは真の自己実現からはほど遠いものだ。」

バウマン『リキッド・モダニティ』

この指摘は、キェルケゴールが「審美的段階」と呼んだ生き方、すなわち直接的な感覚や快楽を追求する生き方が、現代社会において支配的になっていることを示唆しています。キェルケゴールの絶望論は、このような現代社会の問題を理解し、批判する上で有効な枠組みを提供しているのです。

絶望の克服と「余白」の概念

 ここで今日も、yohaku Co., Ltd.の「余白」の概念とキェルケゴールの絶望論を関連付けて考えてみましょう。yohaku Co., Ltd.が提唱する「余白」は、現代社会における絶望を克服するための一つの方法として理解することができます。

キェルケゴールが指摘した絶望、特に「自己を持たないことの絶望」は、現代社会における忙しさや表面的な成功追求の中で見落とされがちな自己との対話の欠如を想起させます。yohaku Co., Ltd.が提唱する「余白」は、まさにこの自己との対話、内省の時間を確保するための概念と言えるのではないでしょうか。

絶望の克服と自己実現のプロセスは、まさに「余白」を通じて可能になるのです。自己の内なる矛盾や不均衡に向き合い、真の自己を見出していく過程は、日々の忙しさから一歩離れ、自己と向き合う時間と空間を必要とします。

自己疎外や実存的空虚感の問題

 キェルケゴールの「死に至る病」における絶望の分析は、人間存在の根本的な構造と、自己実現の本質的な困難さを鋭く描き出しています。彼の思想は、単なる心理学的な考察を超えて、人間の実存的状況についての深遠な哲学的洞察を含んでいます。

この絶望の分析は、現代社会における自己疎外や実存的空虚感の問題に対しても、重要な示唆を与えています。yohaku Co., Ltd.が提唱する「余白」の概念は、まさにキェルケゴールが指摘した自己との真摯な対峙の重要性を現代的な文脈で実践しようとする試みと言えるでしょう。

明日は、キェルケゴールの自己概念についてより詳細に検討し、絶望の克服と真の自己実現の可能性について考察を深めていきます。特に、現代社会における「余白」の重要性と、それがいかにキェルケゴールの思想と結びついているかを探求していきましょう。


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