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セクシュアリティと社会規範 2/4「正欲」

「正しい欲望」の探求とセクシュアリティの社会的構築

 昨日から扱ってきた朝井リョウさん著の『正欲』の中核を成すテーマの一つは、セクシュアリティと社会規範の複雑な関係です。主人公たちの水性愛は、一般的な性的指向の枠組みを大きく逸脱しています。この設定は、私たちに「正常」な性的欲望とは何か、そしてそれを誰が定義するのかという根本的な問いを投げかけます。

社会学者のミシェル・フーコー(1976)は、『性の歴史』において、セクシュアリティが歴史的・社会的に構築されたものであると主張しました。フーコーによれば、性的欲望や行動の「正常」と「異常」の区分は、権力関係によって作り出され維持されているのです。

『正欲』の水性愛者たちは、まさにこの「正常」と「異常」の境界線上に位置しています。彼らの性的指向は、社会的に構築された「正常」なセクシュアリティの範疇に収まりません。しかし、だからこそ彼らは、私たちが無意識のうちに受け入れている性規範の恣意性を浮き彫りにするのです。

哲学者のジュディス・バトラー(1990)は、『ジェンダー・トラブル』において、ジェンダーとセクシュアリティが社会的に「演じられる」ものであると主張しました。この観点から『正欲』を読み解くと、主人公たちの水性愛は、既存のジェンダーとセクシュアリティの「演技」を攪乱する行為として解釈することができます。

欲望の正当性と倫理

 『正欲』のタイトルが示唆するように、本作品は「正しい欲望」とは何かという問いを中心に展開します。水性愛者たちの欲望は、他者に危害を加えるものではありません。にもかかわらず、彼らは社会から「異常」のレッテルを貼られ、排除されていきます。

この状況は、哲学者のジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ(1972)が『アンチ・オイディプス』で展開した「欲望の生産」という概念を想起させます。彼らによれば、欲望は単に個人的なものではなく、社会的・政治的な力学によって生産されるものです。『正欲』の主人公たちの欲望も、この社会的な力学の中で「異常」として生産されているのです。

しかし、本作品は単に既存の性規範を批判するだけではありません。むしろ、「正しい欲望」という概念自体の妥当性を問うているのです。欲望に「正しい」「間違っている」という価値判断を下すことは可能なのか。そもそも欲望を社会的に規制することは正当化できるのか。これらの問いは、現代社会における性の倫理に根本的な再考を迫るものです。

哲学者のマーサ・ヌスバウム(1999)は、性的行為の道徳性を判断する基準として「同意」と「危害」の概念を提示しました。この基準に従えば、『正欲』の主人公たちの性的行為は、他者の同意のもとで行われ、誰にも危害を加えていないため、道徳的に問題はないということになります。しかし、社会はそれでも彼らを「異常」として排除するのです。

親密性と他者性の葛藤

 『正欲』の主人公たちが直面するもう一つの大きな問題は、親密性と他者性の葛藤です。彼らは自分たちの性的指向を他者に理解してもらうことの困難さに苦しみながらも、同時に深い親密さを求めています。

哲学者のエマニュエル・レヴィナス(1961)は、『全体性と無限』において、他者との真の関係は他者の絶対的な他者性を認めることから始まると主張しました。この観点から見ると、『正欲』の主人公たちの関係性は非常に興味深いものです。彼らは互いの「理解不可能性」を認めながらも、深い絆を形成していくのです。

この関係性は、現代社会における親密性の新しいモデルを示唆しているとも言えるでしょう。完全な理解や同一化を求めるのではなく、互いの異質性を認めながら関係を築いていく。そのような親密性のあり方が、『正欲』を通じて提示されているのです。

社会学者のアンソニー・ギデンズ(1992)は、『親密性の変容』において、現代社会における「純粋な関係性」の概念を提唱しました。これは、外的な社会的・経済的要因ではなく、関係性それ自体から得られる満足によって維持される関係を指します。『正欲』の主人公たちの関係は、まさにこの「純粋な関係性」の一形態と見ることもできるでしょう。

社会的スティグマと自己アイデンティティ

 『正欲』の主人公たちが経験する社会的スティグマは、彼らの自己アイデンティティ形成に大きな影響を与えています。社会学者のアーヴィング・ゴッフマン(1963)は、『スティグマの社会学』において、スティグマが個人のアイデンティティを著しく損なう可能性があると指摘しました。

水性愛者たちは、自分たちの性的指向を隠さざるを得ず、常に「本当の自分」を偽っている感覚を抱いています。この経験は、彼らのアイデンティティに深い亀裂を生じさせます。しかし同時に、彼らは互いの存在を知ることで、新たな自己肯定の可能性を見出していくのです。

この過程は、スティグマ化された集団がいかにして「対抗的アイデンティティ」を形成していくかを示しています。社会学者のアルベルト・メルッチ(1989)は、『現在に生きる遊牧民』において、新しい社会運動におけるアイデンティティの重要性を指摘しました。『正欲』の主人公たちも、社会の主流から排除されながらも、むしろそのことによって独自のアイデンティティと連帯感を築いていくのです。

欲望と消費社会

 『正欲』は、現代の消費社会における欲望のあり方にも鋭い洞察を投げかけています。社会学者のジャン・ボードリヤール(1970)は、『消費社会の神話と構造』において、現代社会では物質的な消費よりも記号の消費が重要になっていると指摘しました。

水性愛者たちの欲望は、この消費社会の論理からも逸脱しています。彼らの欲望は、商品化され消費されるものではなく、極めて個人的で還元不可能なものです。この点で、彼らの存在は消費社会への一種の抵抗とも解釈できるでしょう。

哲学者のスラヴォイ・ジジェク(1989)は、『イデオロギーの崇高な対象』において、イデオロギーが我々の欲望そのものを構造化していると主張しました。この観点から見ると、『正欲』の主人公たちの欲望は、支配的イデオロギーによって構造化されていない「生の欲望」として捉えることができます。

欲望と創造性

『正欲』は、欲望と創造性の関係についても示唆に富んだ視点を提供しています。精神分析学者のジャック・ラカン(1964)は、欲望が常に「他者の欲望」であると主張しました。つまり、私たちの欲望は社会的に構築され、他者の期待や価値観に影響されているというのです。

しかし、『正欲』の主人公たちの欲望は、この「他者の欲望」の枠組みから逸脱しています。彼らの欲望は、社会的に承認されたものではなく、極めて個人的で創造的なものです。この点で、彼らの欲望は芸術的創造性と類似した性質を持っていると言えるでしょう。

哲学者のジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ(1980)は、『千のプラトー』において、「リゾーム的思考」という概念を提唱しました。これは、中心や階層構造を持たない、多様性と創造性に満ちた思考のあり方を指します。『正欲』の主人公たちの欲望のあり方は、まさにこの「リゾーム的」な性質を持っていると解釈できます。

欲望と倫理の再考を経て

 『正欲』は最終的に、欲望と倫理の関係を根本的に再考することを私たちに促します。哲学者のアラン・バディウ(1993)は、『倫理』において、真の倫理は普遍的な規則の適用ではなく、具体的な状況における「真実への忠実さ」にあると主張しました。

この観点から見ると、『正欲』の主人公たちは、自らの欲望という「真実」に忠実であろうとする中で、新たな倫理のあり方を模索しているとも言えるでしょう。彼らの姿は、既存の道徳規範や社会通念に囚われない、真に自由な倫理的主体の可能性を示唆しているのです。

しかし同時に、この自由は大きな責任を伴うものでもあります。哲学者のエマニュエル・レヴィナス(1974)が『存在の彼方へ』で論じたように、他者に対する無限の責任が真の倫理の核心にあるのだとすれば、『正欲』の主人公たちもまた、自らの欲望を追求しつつ、他者への責任を果たすという困難な課題に直面しているのです。

このように、『正欲』はセクシュアリティと社会規範の関係、欲望の正当性と倫理、親密性と他者性の葛藤、社会的スティグマと自己アイデンティティ、欲望と消費社会、欲望と創造性、そして欲望と倫理の再考など、現代社会が直面する複雑な問題を鋭く描き出しています。

本作品は、これらの問題に対する簡単な解答を提示するのではなく、むしろ読者に深い思索を促し、既存の価値観や倫理観を根本から問い直すことを要求していると言えるでしょう。

明日は、オンラインコミュニティなどのデジタル技術によって生み出された人と人の「薄い繋がり」をテーマにこの「正欲」を取り扱っていきます。

映画化もしていますのでご覧ください!(私はまだ映画を観ていないので、余白をつくってこれから観ます…)


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