転院(僕が失明するまでの記憶 11)

 阪急神戸線の駅を降りて北上し、並木道を進み、瀟洒な家々が立ち並ぶ路地を抜けたところにその病院はあった。敷地に入っても建物にたどり着くまでにはかなり急な坂を登る必要があって、車でも明らかに傾斜を感じられるほどだった。

 無機質で、ややもすれば威圧的でもあった大学病院の門構えとは異なり、簡素でこじんまりしていて、病院というよりは海外の寄宿舎か研究施設みたいに見えた。六甲の山間の斜面に沿っていくつかの建物が並んでいるようだったが、どれもせいぜい4階建てぐらいの高さしかなく、背景の山の緑と見事に調和していて、素人でもなかなかの写真が取れそうだった。

 正面の自動ドアを抜けると穏やかな表情で祈る聖母像が静かに鎮座しており、さらにその背後の壁にはイエス・キリストらしき絵が掛けられていた。案内や掲示板には日本語とともに英語が併記されていて、実際に外国人と思しき人が往来してもいた。本物の外国人を見るのは生まれて初めての経験だった。

 主治医のY先生は世界的にも著名な眼科医であるらしかった。家から通える範囲にいい病院があってよかったと両親は語っていた。

 8月と10月の2度にわたって手術をした。結果として左目の視力が戻ることはなかった。

 周囲の心配をよそに、僕は思いのほか楽観的だった。左目が見えなくても右目があるのだから、まあいいじゃないかと高をくくっていた。事実、問題なく見えている右目があれば生活上困ることはなかった。勉強にいたっては入院中の暇つぶしに独学を続けたおかげで、遅れを取るどころか、むしろ先へ進みすぎたほどだった。だからといってずっと入院していたいとまでは思わなかったけれど、つかの間の安息をそれなりに満喫していた。

 最も印象に残っているのは病室から見える神戸の景色だった。病院は山間の小高いところにあったので、南向きの窓から神戸の街並みが見下ろすように一望できた。そして街の向こうには海があった。特に夜の景色は幻想的で、思わず息を呑んで見惚れるほどだった。難航する治療であることは致し方ないとしても、見るもの聞くもの全てが非日常的で特別な時間だった。学校にそのままいるよりずっと大人に近づけた気がした。