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「でも、片付かない・・・」

Oct 21, 2005(楽天blogより)

「でも、片付かない・・・」

ゴミの問題は暮らしの問題にとどまらず、経済から政治へと
繋がっています。
言わば、暮らしの末端と政治を繋げる一歩といえましょう。
分別ゴミ置き場を見ていると、全く分別されていないゴミを
放り投げていく人たちがいます。

野口体操教室にも片付けられない人がいて、彼女の言い分を聞いていると感心させられます。


「私はいつも清潔にしている。洗濯、タワシの使い分け、
 洗剤使用後のすすぎ、煮沸消毒、・・・
 すべて、キチンとやっているわよ」

「私は分別ゴミだって決められたことは守っているし、
 ゴミと言えどもきれいにして出します。
 納豆の容器も、ビン・カンも、味噌の袋も・・・」

「でも、片付かない・・・」


と彼女は言います。


「きっと、私は収納のシステムをつくることができないだけよ」


収納するには分別するしかないのですから、
結局は分別をしていないことになります。
それに、いくら収納システムをつくったからといって
そこに収められなくては何んにもなりません。


「決めた中に収められないのは、
 生活をするのに都合のいい処に置いてあるのが一番。
 玄関に口紅や櫛が置いてあったり、
 あちこちにいろいろ置いてあったりするのは仕方が無い。
 他人には散らかって見えるけど、私には都合がいいのよ」


これも彼女の言い分です。
そうか、そうだったのかと、彼女の言い分にタジタジとなります。

「でも、片付かない・・・」と、彼女は言います。

それにしても、彼女(こんな人たち)のからだの動きを見ていると、
分別・収納における問題と全く同じ問題が、からだの中でも
見事に起こっています。

からだが分けられていません。解けていないのです。
分けるには、空いていなければ分けられないのですが、
空けて分けるには力を抜かなくてはなりません。

毎日の暮らしも、生活の動線であり、流れです。
からだの動きも、流れです。
空いているからだに「道」ができ、「重さのバランス」が
くずれて道に流れていくのが動きです。

暮らしの全体像がつかめていないように、
からだをまるごと全体としてとらえられていません。
部分だけどんなに清潔にしても片付かないように、
全体の中の部分、として感じていない動きは
つたわり・つながり」がなく美しくありません。


「このところ、からだの動きが分かってきて、
 分かってきた分、片付けられるようになったの。
 でも、あまり片付け過ぎるとキレイになっただけで
 味わいというものがなくなるわ。」


〜という彼女の美意識は残しておきたいものです。


わかるという文字〜『分・解・判・別』
これらの文字をからだで味わうことが
『わかってくる実感』というものであろう。

頭の中をどのように分けられるのだろうか、
腰の中を、踵の中を・・・
微小な動きでやってみる。

野口 三千三


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