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ためにならない。誰も読まない。なんの意味もない。そういうやつ。

なんども下書きを書いては消し、消しては書き。大学卒業のこととか、新しい環境のこととか、いろいろ思うこと、いいたいことはあった。でも文章にできない。


ってとこまで書かれた下書きが発見された。今から数年前、学生だった時のものだ。もう、このころの自分がどんな性格で、どんなことを考えて生活していたかは覚えていない。

昔住んでた小さな部屋は、今は他人だれかが住んでんだ。

昔の写真でも見ればなにか思い出すかなあと、なんとなくパソコンのファイルを遡ってみたら、当時住んでいた部屋の写真が見つかった(これ↑)。
…安心してほしいが、自分でもちゃんとゾッとしている。こんなところで生活していたのか、自分…。(ちなみにこの画角以外の写真もあって、それはもう見せられるものではない)

きっと当時もなにか思うところがあって、わざわざ写真に残したんだろう。僕は、数年前、数年後の自分は他人であるという考えを持ってるんだけど、それを踏まえてこの部屋の住人にひとこと言わせてもらいたい。
「こんな部屋で生活してるなんて、君、ちょっと気持ち悪いよ。マジで」

以前、考察したように、机と椅子が無いと文章は書けない(少なくとも僕は)。そりゃあ、なにも書けないわけだ。当時の自分に机と椅子を買えと教えてやりたい。

過去との対話

当時の僕の居住環境についてはこれくらいで、ここからは残された下書きのことを考えたい。

ためにならない。誰も読まない。なんの意味もない。そういうやつ。

数年前に残されたタイトル

ここに投稿していく記事についてのことだろう。匿名でネットに文章を投稿することに無意味さを感じていたのだろうか、そんなタイトルだ。
多分、このネガティブなタイトルから記事を始めて、”それでも書く意味”を語っていきたかったように思われる。僕ならそうする。しかし展開が思いつかなくて断念、といったところだろう。

「でも文章にできない。」とあるが、これが忙しいからなのか、書くことがまとまらないからなのか、はたまた、書きたくないからなのかはわからない。まあでも、文章にしないことによって得られるものもあるから、それはそれでよかったんじゃないかと思う。

いくつか記事を書いた人ならわかると思うが、頭にあることを文章にすると、その書いている過程で、考えがまとまる感覚がある。イメージが固体化されるというか、鮮明になるというか。
これには良い面もあれば、悪い面もあって、それは考えに可能性を持たせられなくなるというところだ。モヤモヤできなくなる。

当時の僕は、この下書きを完成させなかったことによって、大学を卒業して、大学院で研究を始めた時期のあれこれについて、モヤモヤすることができたことだろう。ここではモヤモヤをポジティブな意味で使っている。

そして、それでもなんとか残したタイトルから、数年後の僕が記事を書き上げる。あの頃から、大なり小なりのモヤモヤを抱え込んで生きてきた。いくぶんか思考が柔軟になり、あるいは適当に文章を書けるようになったので、「文章にできない。」という一文から文章を展開することができるまでになった。まあ、悪くない。

嬉しい誤算

あと、ここに投稿する記事が「ためにならない。誰も読まない。なんの意味もない。」と述べられている件について、もうひとつだけ。
ためにならない、何の意味もない、に関してはその通りだと思う。そもそも僕の書いた文章が、ためになる、意味があるというのが具体的にどういうことを指してるのかがわからない。むしろ、生活の知恵、お役立ち情報とかは書いていかないぞ、という意志さえ感じる。ここは今とスタンスが変わらない。
誰かの役に立つことを前提とした文章は、なかなか難しくて書けない。これからも「ためにならない、なんの意味もない」ものを書いていくしかないんだろうし、そのつもり。

ただ、そんな記事を好き好んで読んでくれる人がいるらしいというのが、当時の僕の誤算だ。どうやら僕の書いた文章は「誰も読まない」わけではないらしい。
こんな気味が悪いサムネの記事をクリックして、ここまで読んでくれた方には、このアカウントの記事を読んでもらって嬉しいと思っていることを伝えておきたい。
別に感謝はしないけども、ただただ嬉しいと思っています。

とっちらかった部屋と同じように、あっちこっちに話がぶれる文章しか書けないが、ごくたまには面白いことを書いてるつもりだ。
これからも不定期でゆるゆるいかせてもらうので、待っている人は待っていてほしい。

それでは、また。

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