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孤独感と人間に対する感情のそれについて

私は幼い頃から孤独感を感じていた。

孤独になりたいわけじゃない。

けれど、
孤独な時間が私を癒し、
そして苛んだのも事実だ。

周囲に合わせることはできる。

だが、
馴染むことはできなかった。

人の輪に入りたかった。

けれど、
そこで心から面白いと思える自分がいなかった。

上滑りの言葉。

上滑りの表情。

何を見ても、何をしても、
感情がそれに追いついてこない。

感動するのは、
寺社仏閣の仏像や絵巻、建築物。

息を呑むほど、立ち止まるほど、
ただ見惚れてしまったのは
千手観音像と龍頭観音絵図。

ただその時の感情を
『感動』と括ってしまって良いのか
私には分からない。

涙が流れる映画を見たときに、
「感動してるの?」と聞かれたら
そうではない気がする。

映画の中で、
その人物が泣くから泣いてしまう。

心が揺さぶられたのかと聞かれると、
揺さぶられたのかもしれないし、
そうではないかもしれない。

自分の反応に名前をつけるのは難しい。


思想の話をしていると、
私は大体二極化した評価を受ける。

「人に興味がないんだね」

「人が大好きなんだね」

どちらも正しく、
どちらも正しくない。

興味がない人間もいるし、
大好きな人間もいる。

これが最も正しい答えだろう。

誰もが”そう”であるように、
私も”そう”であるだけだ。

ところが不思議なことに、
私はまるで聖人君子か何かの
ような存在にならざるを得ない
場面にしばしば遭遇する。

全てを許し、全てを肯定し、
静かに微笑んでみせる場面が。

滑稽である。

私は誰よりも人間を差別するし、
私は誰よりも人間を蔑むし、
私は誰よりも人間を罵倒し、
私は誰よりも人間を愛する。

自分が正しいと思っているのではない。

それができれば
最も理想である。
最も効率的である。
最も効果的である。

そんな話をしているだけだ。

そして、
それを実行できる人間など、
ほとんどいないというだけの話だ。

だから私は孤独にならざるを得ない。

理解をされようと言葉を尽くして、
ところが私のそれは、
彼らの物差しで勝手に判断され、
彼らの物差しで勝手に裁かれる。

そして私は、
それにいちいち反論などしない。

『ああ、また届かなかった』

そんな諦観が去来するだけである。

通じるまで説くのもいいだろう。
親が子供へ言い聞かせるかのように、
延々と話すことは可能だ。

ところが、
それに付き合える人間がいない。

最後まで話を聴き終わる前に、
話を中断し、中途半端な理解で断じ、
時に私に説教をくれて自己満足を満たすのだ。

私は疲れてしまった。
そう、ただ疲れてしまったのだ。

理解を得ようと必死になって紡ぐ言葉は、
正しく理解されないまま断じられ、
中途半端な憤りをぶつけられ、
そうして悲しい思いをすることに
耐えることを諦めたのだ。

だから理解されなくて良いと嘯く。

今ここで、
私の話を最後まで聞くことなく
断じても構わないと言う。

そんな私の駄話に付き合ってくれるような、
そんな酔狂で心優しい人だけが、
私の周りに居続けてくれたら。

私はきっと、それで満足なのだ。

お付き合いいただき、
誠にありがとうございました。

のぞみん


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