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「楽器破壊の(反)美学」に向けて―議論の整理

2024年6月3日(月)に開催される「近藤聖也コントラバスリサイタル 孤島のコントラバス」で演奏される(すでに演奏されはじめていると書くべきなのかな……)佐藤瀬奈さんの新作《-傀儡- necrophilia》について、トイッターがなんだか盛り上がっています。私はトイッターをやっていないので(はじめようかとも思うんだけど今始めると「楽器破壊擁護おじさん」になっちゃうしなあみたいなことを考えてしまうと一生タイミングを掴めない)外から眺めているだけですが、よくあることながらどうしようもない議論になりかけているように見えます(議論とさえ言えないか)。「楽器を破壊するのは許せない!」という嫌悪感の表明と、「何か問題でも」という消極的擁護とが対立している構図で、これ以上追っていてもどうしようもないと感じたので、こちらで論点になりそうな部分を整理してみました。この作品は、私の研究にとってインスピレーションを与えてくれるものであり、すごくありがたく思います(この文章のパート9がその部分です)。いちいち引用したりしませんが、トイッター上の発言に基づく部分も多くありますし、私論もあります。試論なので、今後意見を変えるかもしれません。今回は基本的にフェアな立場から書いているつもりですが、私は「楽器破壊は積極的に擁護されるべきだ」と考えており、いつか「楽器破壊の(反)美学」(仮)みたいなまとまった文章にできたらいいなと思っています。その他、「楽器破壊ワークショップ」開催したいなとか『正しく楽器を破壊する方法』みたいな書籍でないかなとかいろいろ楽しいことが頭に浮かんできますが、とりあえず。
サムネイルは12月4日のおひるごはん、二食(※駒場キャンパスの二階にある食堂のこと)の期間限定シラス丼。


1 前提

1-1
論点は「楽器破壊」という行為の芸術的価値であって、快/不快という個人の感性を問題とはしない。
1-2
作品を公表することが「表現の自由」によって保護されるのと同様に、作品を批判することも「表現の自由」によって保護される。
1-3
快/不快という個人的かつ曖昧な感性に基づく批判も許容されなければならない。
1-4
ただし、個人の感性に基づく批判は、それに対する反批判が困難である。その曖昧さ(いわく言い難いものが根拠になっているため、反論のしようがない)と自己完結性(内的な情動が根拠になっているため、他者には完全に理解しえない)ゆえに。
1-5
反批判が困難であるために、その批判が作品へのキャンセルにしばしば結びつくことに留意しなければならない。あいちトリエンナーレ2019やいわゆる「萌え絵」問題などが参照される。

2 音楽とは何か、何であるべきか

2-1
音楽は音の芸術でなければならない、という古典的なテーゼは、ケージ/カーゲル以後の音楽世界において劣勢ではあるものの、定義として妥当性を欠くものではない。
2-2
ただし、音楽を音に限定することによって別の側面が捨象されてきたことを忘れてはならない。それは古典的な西洋芸術音楽だけでなく、1940年代までの前衛音楽についても同様である。
2-3
現在ニュー・ミュージックシアターあるいはエクスペリメンタル・ミュージックシアターと呼ばれる1950年代以降の音楽潮流は、音以外を見捨ててきた音楽世界への批判をしばしば含んでいたと考えられる。
2-4
したがって、音楽は音の芸術であって、行為(パフォーマンスや視覚と呼び変えてもよい)を主体とすべきでない、などと主張する際には、行為を主体とする音楽の登場した歴史的背景を踏まえることは必須である。
2-5
なお、今回の作品を「音楽は音の芸術である」といった仕方で批判するには、おおよそケージ以後の前衛芸術を一括りにして批判するくらいのエネルギーが必要であって、容易にできることではないだろう。

3 作者の意図について

3-1
作者の意図については、美学の主要なテーマであって、立場を定めるには別個の膨大な参照と議論を必要とする。
3-2
たとえば、ロラン・バルトのラディカルな立場に拠るなら(私は基本的にここに立脚する)、作者の意図は作品の本質に関係ないものとして切り捨てられる。
3-3
この立場においては、今回の作品が作曲者の意図と異なる解釈で分析されるとしても許容されるべきである。
3-4
また、作曲者のステートメントを鵜呑みにする必要もない。

4 作品の分析について

4-1
作品分析については、これもまた長い歴史を持つものであって、立場を定めることは難しい。
4-2
ただし、今回の作品に限っては、古典的な音楽分析の手法が馴染まないことは確かである。20世紀の音楽の変化を追うように、音楽分析の手法も変化しており、それはニュー・ミュージコロジーと呼ばれる分野でみられる。
4-3
したがって、今回の作品を分析する際にはニュー・ミュージコロジーの先行する分析手法が援用されうる。
4-4
他方で、ゲイリー・トムリンソンが言うように、たとえポストモダン的(ニュー・ミュージコロジー的)な分析であろうとも、作品を綿密に読解する行為そのものが近代的イデオロギーに依存するものであるということに注意する必要がある。

5 作品を理解することについて

5-1
作品は理解されなければならないわけではない。また、作品を理解できること(できないこと)とその作品を良いと感じること(悪いと感じること)が等価であるべきでない。
5-2
芸術は、とりわけ音楽は、コミュニケーションの手段でない(目的のある手段でない)ため、そこに等しく伝達されるべき意味内容があると考えるべきではない。

6 新規性について

6-1
すくなくともこの作品については、「新規性」の有無が評価に大きく関わると考えられる。
6-2
楽器破壊は、前衛音楽の分野においてもそれ以外の分野においても散々擦られてきたものであって、そこに新規性は認められるはずもない。
6-3
だが、楽器破壊に新規性がないからと言ってこの作品に新規性がないことにはならないし、評価が低くなるとも限らない。いまチャンスオペレーション作品を作ってもそれ自体に新規性はないが、評価されないとは限らないのと同様である。

7 カーゲルへの言及の妥当性

7-1
作曲者がカーゲルの《Zwei-Mann-Orchester》を持ち出したことについて否定的な意見が少なくない。
7-2
過去の参照が新しい作品を許容する根拠になり得ないという主張に一定の妥当性があるにせよ、この作曲者のカーゲルへの言及は重要であり、この作品の意義に迫る鍵になるように私には思われる。
7-3
というのも、作曲者はこの作品を(山下洋輔でもX JAPANでもクライドラーでもなく)カーゲルに立脚させていることが示唆されているからである。
7-4
作曲者の意図を汲む必要はない(3-4)にせよ(そもそも作曲者がカーゲルに立脚しているという上記の解釈自体、私の勝手な解釈にすぎない)、カーゲルの延長線上にこの作品を置くことによって、妥当に議論を限定することができる。

8 拡張奏法と楽器破壊

8-1
カーゲルの楽器破壊(《Zwei-Mann-Orchester》でもよいし、もちろん《ティンパニ》でもよい)はカーゲルの言うインストゥルメンタル・シアターの一つとして捉えられる。
8-2
しかし、《ティンパニ》の全体を観れば明らかであるように、ティンパニに頭から突っ込むことによる楽器破壊は単なるキャッチ―なアクションではなく、拡張奏法のひとつである。
8-3
そもそも家電等と同様に本来の目的に沿わない楽器の使用は破損の原因になるのであって、その意味で拡張奏法は楽器破壊である。

9 インストゥルメンタル・シアターと楽器破壊

9-1
インストゥルメンタル・シアターとは何か。それは一般に、楽器の演奏者を一人の役者(アクター)として捉え、音楽的身体を取り戻すような営みとして理解される。
9-2
私の仮説だが、インストゥルメンタル・シアターはむしろ従来的な演奏者と楽器の関係を覆す営みとして捉えるべきではないだろうか。以下、仮説である。
9-3
従来の楽器観とは、つまりorgan(楽器=器官=臓器)である。心臓、腎臓、肺のように楽器が存在しており、それらは一体化して音を鳴らす機械(body)であるというような考え方。この考え方においては、楽器は演奏者と一体であり、というか演奏者の内部にある。
9-4
インストゥルメンタル・シアターは演奏者をアクターとして捉える。つまり、楽器と切り離された身体(body)を想像される。つまり、従来は楽器と一体化してのbodyであった演奏者は、インストゥルメンタル・シアターの概念のもとでは楽器なしでもbodyでいられる。
9-5
このとき、演奏者にとって楽器はもはや臓器ではない。そのため、演奏者は楽器を対象化することが可能となるのである。
9-6
以上の仮説が妥当であるとすれば、インストゥルメンタル・シアターにおいて楽器が破壊可能であることに説明はつく。演奏者が楽器と一体であるときには、それは臓器なので破壊することなどありえない。自分自身なのだから。もし破壊するとしてもそれは自傷行為として自らの痛みを伴う。ところが、インストゥルメンタル・シアターの概念のもとでは楽器は演奏者にとって対象であり、他者である。それゆえ、楽器は破壊されうる。自傷ではなく他傷であり、自らの痛みは伴わない。

10 破壊するのは楽器でなくてはならないか

10-1
9の議論より、破壊するのは明らかに楽器でなくてはならない。ネクタイをちょん切るのでは文脈が変わってしまう。

11 コントラバスでなくてはいけないか

11-1
作曲者によるコントラバスである必然性についての弁明はあまり説得力のあるものには思われない。
11-2
正直に言って、コントラバスである必然性などないのだろう。しかし、コントラバスである必然性がこの作品に必要であるようにも思われない。演奏者に寵愛されるような「いわゆる楽器」であればコントラバスでなくても良いのではないか。
11-3
今回の作品がコントラバスであるのは、近藤聖也さんの委嘱だから、という説明では不十分なのだろうか。コントラバス作品を委嘱されたらコントラバス作品を書く、というのは当然のことである。

12 廃品でよいのか

12-1
美学的観点から、この作品に使用されるコントラバスが本当に演奏者にとって大切なものであるべきなのか、廃品でよいのかというのは難しい問題である。まだ私も答えを出せない。
12-2
実際問題で言えば、この手の作品をやる際には常にどこかで折り合いをつけなければならないものである。ナム・ジュン・パイクだってケージのネクタイを切っても、道行く人のネクタイを切るわけではない(彼の作品にはそういう指示があるスコアもたくさんあるけれど)。妥協しなければ、血が流れたり、人が死んだり、戦争が起こったり、地球が破滅したりしかねない。

13 演奏者が破壊することについて

13-1
演奏者が破壊するのと作曲者が破壊するのとでは話が違うという指摘は的を射ている。
13-2
9で立てた仮説によれば、演奏者が楽器を破壊することはインストゥルメンタル・シアターの本質として機能し得るが、作曲者と楽器の関係はもともと距離があるため、それが暴力的構造であるようにも見える。
13-3
この妥当性は、今回の作品の是非に関わる問題である。

14 アートプロジェクトであることについて

14-1
作曲者は「アートプロジェクトとしての側面」もあると明言している。
14-2
このことが、この作品の新規性(6)の一つであることは間違いないだろう。今までに楽器の破壊が舞台上での演奏として行われたことは何度もあったし、すでに破壊された楽器を演奏する作品もたくさんあったが、楽器破壊の長いプロセスを公開し、それを「プロジェクト」として作品に包括するという枠組みは今までにないものであるように思われる。
14-3
私見では、この一点だけでも今回の作品に重大な意義があり、積極的に肯定されるべきと思われる。
14-4
ただし、少し引っかかるのは作曲者が「アートプロジェクトとしての側面」という言い方で誤魔化しているところである。つまり、この作品はアートプロジェクトそのものではなく、アートプロジェクトの側面もあるが本番の演奏もある、というわけである。

15 当日は必要なのか

15-1
作曲者は「この曲は演奏時間2ヶ月11日という長編」だと述べるが、そうであるならばこのアートプロジェクト自体が作品そのものであってはならないのだろうか。
15-2
もしこの作品がアートプロジェクトであるというならば、6月3日が特別な一日である必要はないように思われる。「プロジェクト」はそのプロセスが焦点化されるべきである。
15-3
現状では、「2ヶ月11日にわたるアートプロジェクト」と「2024年6月3日」の比率が不明確である。これは6月3日に何が起こるか次第である。
15-4
現段階で、「2ヶ月11日にわたるアートプロジェクト」にはかなりの強度があることが推察される。楽器破壊のインパクトを伴う2ヶ月という長い時間は、相当のものである。であるとすれば、この楽器破壊を伴う「アートプロジェクト」をさらに破壊するような強度が6月3日の演奏に求められることになるだろう。ハードルを上げすぎたかもしれないけれど、楽しみに待つ。

(文責:西垣龍一)

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