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「東大生 VS 川島素晴 feat. 国立音大生」のお知らせと西垣龍一《ミッ●ーマウスにおける著作権の意義》もう一つの解説

私がティーチング・アシスタントを務めている東京大学文理融合ゼミナール「身体と芸術」の開講科目「現代音楽諸作品の演奏実践と自作品の創作」(川島素晴先生)の成果発表コンサートを開催します。3月7日(木)14時開演、入場無料。直前ですが、残席ありますのでぜひ。お申込みはこちらから。


西垣龍一 プログラムノート音楽《ミッ●ーマウスにおける著作権の意義》

 私の作曲作品《ミッ●ーマウスにおける著作権の意義》についてのもう一つの楽曲解説である。「もう一つの」というのは、当日配布のプログラムノートとは別の内容ということを意味するが、このほかに演奏者向けに記された解説もある(サムネイルは演奏者向けの解説の一部)ため、実質的にはこの作品についての解説は三種類あることになる。

当日配布のプログラムノートとほぼ同内容の解説は、他作品の解説とともにこちらからご覧いただくことができる。


【もう一つの解説】コンセプトのシアター?

 この作品にはメタレベルのコンセプトがある。それは、「コンセプトのシアター」とでも言うべきものである。音楽において、「シアター」という用語は一般的に事象の複数性に焦点を当てている。大まかに言えば、シアトリカル・ミュージックとは「そこに現前するものが複数である」という状態を捉えるものであるといえる。
 たしかにその点については異論はないのだが、しかしこのシアターという用語には別の複数性が介在しているという見方も可能であるように思われた。それが、コンセプトの複数性である。もちろんそれは、コンセプトを中心に据える芸術としてのコンセプチュアル・アートの時代と作曲家のシアトリカリティへの関心の最高潮が重なりなっていることに注意を向けさせる。
 たとえば《4分33秒》の場合、聴取のレヴェルが複数的である(その時間、その個人にだけ可聴である音に注意が向けられる、すなわちそれぞれが聴くものが異なるという意味での複数性)のに対し、コンセプトは明確かつ単一的である。《4分33秒》についてしばしばなされる「固有の聴取こそが目的であるはずなのに、聴取せずとも作品を理解しているかのように語ることが可能である」という指摘は、この複数性と単一性の共存ゆえであるといえる。
 他方で、ある場合のシアトリカル・ミュージックは、コンセプトのレヴェルで複数的である、ということについて考えたい。たとえばベルント・アロイス・ツィンマーマンの《ある若き詩人のためのレクイエム》(単に今思いついたから挙げただけであり、この作品である必然性はないのだが)の場合、一見するとそのコンセプトは単一であるように捉えることも不可能ではない。たとえば、このタイトルを見れば「ある詩人(モデルがいるとか、自分自身だとか、云々)のためのレクイエム」なのだと思って聴取することは可能である。しかし、実際に夥しい引用の数々を目の当たり(耳の当たり?)にするとき、その混沌を単一のコンセプトにまとめ上げて理解することは不可能であるように思われる。《第九》の引用から《ヘイ・ジュード》が現れ、毛沢東が演説し、マヤコフスキーの詩が朗読され……このような状況は現前するものが複数的であるというのはもちろんのこと、コンセプトのレヴェルで複数的であることを観客は実感せざるを得ない。
 作品に何らかのコンセプトがあると感じるとき、多くの観客はそのコンセプトを探し当てることに注意を向けるだろう。しかし、複数のコンセプトが同時多発的に起こったときに何が起こるのか。言うまでもなく作品に単一のコンセプトを求めるのはやめるほかなく、そうなると複数のコンセプトを同時に見出そうとするか、あるいはコンセプトを探すこと自体をやめるほかないだろう。そのような状態を、「コンセプトのシアター」と呼ぶことはできないだろうか……というようなことを考えながら《ミッ●ーマウスにおける著作権の意義》を書いていた。
(西垣龍一)


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