〈法話原稿〉「S高校の成道会にて」(前編)

※ 過日 S高校・S中学校の成道会にて行わせていただいた法話の原稿です。

みなさん こんにちは 中平了悟といいます。
浄土真宗のお坊さんで、お寺の住職をしています。大学や、お坊さんの学校で仏教の授業をさせていただいたりすることもあります。お寺で法話をすることもあります。
今日は、こちらS中学校 S高校の「成道会」の法要での御法話、お話をさせていただく機会をいただきました。 20分弱の時間です。どうぞよろしくおねがいします。

 さて、成道会は、仏教をひらかれたお釈迦さまが、さとりを開かれたことをお祝いする行事です。お釈迦さまが悟りを開かれたのが 日本では12月8日とされています。

いまから2500年ほど昔、インドで小さな国ではありましたが、王族の子ども、王子様として生まれたお釈迦さまは、生まれること、年を取り老いていくこと、病気を抱えること、そして命に終わりがある、つまり死を迎えることという、四つの苦しみがあることを知り、いたく悩みます。そして、その人生には「生・老・病・死」という避けがたい苦しみがある、思い通りにならないことがある、という苦しみを解決する道を求めて、出家・修行をされます。6年の修行の日々を経て、菩提樹という木の下で、その苦しみを解決する「さとり」の境地をひらかれました。
 さとりとはなにかというと、ありのままにものごとを見つめとらえること、正しくものを見ること。「如実知見」といったりしますが、ありのままに、とらわれなく、正しくものをとらえることであると、言われたりします。 あるいはさとりを「目覚め」ともいい、迷い・とらわれから「目覚めるということなのだ」ともといわれます。
 仏さまを「ブッダ」と呼んだりします。『聖☆おにいさん』というマンガでは、「ブッダ」と呼ばれていますね。手塚治虫さんのお釈迦さまのマンガも「ブッダ」といいます」。このブッダという言葉の意味は「目覚めた人」という意味がありますが、この「目覚めた」という悟りをあらわしたお名前ですね。

 私がお釈迦さまのご生涯の中で大変興味深いと思うお話が「梵天の勧請」というエピソードです。悟りを開いたお釈迦さまに、インドの神様・梵天がお願いにくるというお話です。
 菩提樹の下でさとりをひらいたお釈迦さまは、しばらくそのすばらしいさとりの境地にひたってよろこんでいたといいます。すばらしい悟りの境地に至った、ものごとの真理に到達したと、49日間、一人でその境地を楽しまれていたそうです。

 お釈迦さまは、さとりについて、人々に説いて伝えようとおもったかというと、どうもそうはおもわれなかったようなのですね。 こんな風に思われたそうなのです。
 

私が苦労して悟ったものを、どうして説き明かさなければならないのか。
貪りと怒りに支配された者たちは、この理法(おしえ)を悟ることはできない。俗世間を超えた、意味深く、見がたく、微妙な理法を、貪りにふけり、無知の闇に覆われた人々はみることができないのだ

 と。
 つまり、「教えてもわからんやろう」と。 「説いても、教えても無駄だ」と、そんな風にあきらめられていたようです。
 それを知った、神様、インドの最高の神様のひとり梵天さんが、お願いにくるのですね。人々のために、その教えを説いてください。しかし、お釈迦さまはすぐに、ウンとはいわない。むずかしいだろうと。神様のお願いなのに、すぐに「はい、わかりました」っていわないのですね。
 
 あらゆる人々がお釈迦さまの教えを聞いてさとるということはむずかしいかもしれない。しかし、迷いや貪りに沈み込んでなんとも思っていない人もいるが、迷いから抜け出したいと思っている人がいる。お釈迦さまの教えをきいて、なんとも思わない人もいるだろうけれども、ちゃんとその教えによってさとりへの道を歩むものもいるはずだ、そういう人たちのために、その素晴らしい悟りを説いて下さい、
 そう再三にわたってお願いされ、お釈迦さまもひとびとのようすを見て、教えを説こうと決意されるのですね。
 そして、だれかれ構わず、説いてもわかるわけではない、誰ならばわかってくれるだろうかということで、一緒に修行をしたこともある5人のかつての仲間を最初のお説教の相手にえらび、250キロほどでしょうか、徒歩で移動して会いに出かけて、最初のお説教をされるというお話です。

 これ、面白いなぁと思うのです。お釈迦さまは、お説教をしたがらないんですね。教えて説いても、いうても、わからんやつがいる、と。
 よく考えると、われわれの「宗教」というと抱きがちなイメージとちがうものがそこにあるように思うんです。「宗教」というとどうですか? 絶対の真理がある、間違いのない真実がここにあるとして、それを人に伝えなければいけない、伝えてわからない、受け入れられない人がいると、どうしてお前はこの真理が理解できないのだ、これは真実だからあなたは、これを知らなければいけないのだと。 すべての人が、あらゆるひとにこの真実を伝え、承認しなければいけない真理がここにあると。その教え一色で世界を塗りつくしていくことを求めいくようなイメージをもったりしないでしょうか。

 ところが、仏教は、お釈迦さまはちょっとちがうのですね。もうわからないから、だれにもつたえなくてもいいや、とか思ってしまう。自らがさとったさとりは、絶対の真理、真実ではあるけれど、それを真実と認められない人がいる、ということを最初から織り込んでしまっている。
 つまり、私の説く真実を、真実と認められない人もいるそういう世界で私たちは生きている。 そういう他者とともに、この世界にいるということを仏教は、最初から立場にしているし、そういう世界に生きているのだよということを、このエピソードは教えてもくれているようにおもうのです。
 自分が絶対に正しいのに、と思うことを相手がおなじように認めてくれないということはみなさんも経験したことがあるだろうとおもいます。
 時には、それが原因で怒りが生まれたり、争い・もめ事がおこったりします。
 もしかすると、正しいのに、相手が認めないのではなく、私たちが生きている世界には、私の持っている正しさが、本当に真実だったとしても相手には伝わらないこともあるのです。そういうなかで私たちは生きているのでしょう。
 また、私たち仏教徒だけではありませんね。さまざまな教えや価値観をもつ人たちと私たちは、場所や時間を共にして過ごし、生きているという姿もあります。互いが大事に持っていること、認められることと認められないことがあるということを大事にしながら生きていく智慧もそこにあるのかもしれません。

 わたしは、このお釈迦さまの悟られた直後のこのエピソードが大変興味深いし、仏教が説く、真実というものとの向き合い方、お付き合いの仕方が、ここにすこし示されているような思いがしています。


後半 https://note.com/n_ryogo/n/n70ec7e227e16 に続きます)
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