〈法話原稿〉「S高校の成道会にて」(後編)

※ 過日 S高校・S中学校の成道会にて行わせていただいた法話の原稿です。前編https://note.com/n_ryogo/n/ned76192dd892)の続きです。

【歪んだ見方】

 もうひとつ、お釈迦さまのさとりについて、みなさんと今日は考えてみたいと思います。
 お釈迦さまのさとりを、真実にめざめるということ、それから「正しくありのままに物事を見ること」といいました。 さとりとはそういうものだそうです。 しかし、私たちはまだ、さとっていません。
ですから、真実に目覚めていない、「正しくありのままに物事をみていない」ということになります。 
 しかし、みなさん、そんな風に思っていますか? 私は物事を正しく見ていない! 真実にめざめていない、とは思わないわけです。 いやいや、ちゃんとモノを見ようとしているよ。ものを見ているよと思っているのではないでしょうか。
 はい、わたしもそうです。 しかし、それが危ういのです。

 以前、お説教として、こんなお話をきいたことがあります。
 あるおじいさんが、お寺のお坊さんに会いにいくのですね。そして、そのおじいさんがお坊さんにしゃべりかけるんですね。その話は、自分は、最近仏教の教えを聞いていて、その教えを聞いたおかげで人柄がまるくなって、やさしくなって、家族とけんかをすることがなくなりました。というんですね。
 これは、おじいさん、仏教をきいて自分はえらくなった、ほめてほしいということなんでしょう。
 そうすると、お坊さんは、そのおじいさんを褒めないんですね。「ほう、それはよくできた家族の人ですね」と、おじいさんの家族を褒めはじめた。おじいさんは、あれ?とおもうわけです。それでもういっかい言い始める。「自分は仏教を聞いたおかげで、ひとがらがよくなって、家族とけんかをすることもなくなった、おだやかにいきている」 そうすると、「それはよくできた家族の人ですねぇ」という。
 でまた、おじいさんはいうんですね。「私は、仏教をきいたおかげで、私の人柄がまるくなって、私は家族とけんかしなくなった」 やはりおぼうさんは、「よくできた家族の人ですねぇ」と。

 しまいには、おじいさんは、おこりだしてしまった。
「話の分からん坊さんだな! 私が人間ができてきた、けんかをしなくなったといっているのに、なんであんたはちゃんと受け答えせずに いい家族ですねぇなんて、家族を褒めるんだ!」と。
そうすると、お坊さんは、「おじいさん、今怒っていますか?腹を立てていますか?」
おじいさんは、「そら 怒っている」というわけです。
「どうしてですか?」と聞かれて、「あんたがちゃんと私の話を聞かないからだ」というと。
 「ですよね、だから私は、よくできた家族の人ですね」といったんですよ。と。
そういうお話でした。 (14分)

 このお坊さんの言葉の意味、わかりますか?
 このおじいさん、けんかがおこらないときは、「自分の人柄がよくなったからだ」といっていたんですね。ところが、腹を立てて お坊さんともめているときは、「あんたがちゃんと人の話をきかないからだ」といったんです。 つまり、いい時は自分の手がら、悪い状態になったときにはあんたのせい。
 これ、歪んでませんか?笑 こんな風に私たちのものの見方は、気づかないうちに歪んでいることが多くあります。ずっと歪みつづけているのかもしれません。端的にいうと、「手柄は自分、罪は人」です。

けんかが起こらないのが、自分のおかげであるなら、けんかになってしまったときには「自分の我慢がたりなかった」というべきなんです。 もしけんかが、お前のせいだというならば、けんかになっていないのは、自分の気分を害せずにすごさせてくれているまわりのおかげというべきなんです。
ところが、いい状態は自分の手柄、 悪い状態はお前のせい、といってしまっている。 
 手柄は自分、罪は人。

 お皿を割った時にも、そういうことが出てしまう人がいますね。
 自分がお皿を割った時には「あ、お皿がわれた」というのに、
 誰かが、お皿を割った時には、
「あ、お皿をわった」と。 あなたが、お皿を割ったのだと。笑

 実際に人間は、物の見え方が歪んでいても、それで過ごしていると慣れてくるそうです。
 以前新聞のコラムで読んだのですが、逆転メガネというのがあるそうです。
 上下を逆転して見えるようになるメガネ、左右が逆転して見えるようになるメガネがあって、それをかけると、自分の感覚をうしなってしまうそうなのですが、数日間かけ続ける実験をすると、上下逆に見えるメガネをかけたまま、自転車にのることもできるようになるそうです。
 つまり、適応してしまうのですね。 上下左右逆に見えたとしても、最初は戸惑いながら、その見え方に私たちの脳は順応するそうです。

 実際にわたしはコンタクトレンズをすることがあるのですが、コンタクトレンズと、メガネと裸眼はそれぞれ見え方が違うのですね。 メガネからコンタクトにすると、ものの遠近や見え方がちょっと歪むのです、しばらくするとなれるのですが、見え方がそれぞれちがってしまうという実際のケースだと思います。

 私たちは、私たちのものの見方、とらえ方を 不自由なく生活できていて、差支えなく生活しているけれども、本当に歪んでものごとをみていませんか?とらえていませんか?と 問われてみると、「大丈夫だ」とやはり、言えないむしろ、歪んだものの見方で世界をみているかもしれません。
 手柄は自分、罪は人となっていませんか?
 私も学校で教えているので、人のことは言えませんが、 先生もそういうところがあるかもしれませんね。  生徒の皆さんの成績がいいと、自分の教え方がいいからだと思ってしまう。 しかし、成績の悪い人がいると、あいつの勉強の仕方が悪いからだと、生徒のせいにしていませんか?
 生徒の皆さんも、成績がいいときは 自分ががんばったからだといいながら、悪くなったら、家族が邪魔するから、先生の教え方よくないからと、他の人やなにかのせいにしていませんか?

 手柄は自分、罪は人と歪んで見がちな私たちですから、むしろ逆に、状態がいいときはおかげさま、誰かのおかげでいまの状態であるのではないかと見直してみるくらいの方が、ちょうどいいのかもしれませんね。

 本日は成道会です。 いまから2500年ほど前、迷い・とらわれを離れた真実のさとり、あるがままにものをみる「如実知見」の悟りをひらかれたお釈迦さまが おさとりをひらかれたことをお祝いし、その教えをあらためて思わせていただく行事です。

 どうぞ、みなさん。仏さまに手を合わせ、自らの姿や心をかえりみる時間を大切にしていただけたらと思います。本日はありがとうございました。 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?