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「赤ちゃんに会うと笑顔になれるから」(『ないおん』2021年7月号掲載)


 赤ちゃんのもつ力はすごいなぁと思うのです。
 ある日、電車で赤ちゃんを見かけました。お顔をお母さんの肩にのせるようにだっこされていました。目に映るものが面白いのか、きょろきょろとしています。
 ちょうど駅から、不機嫌そうな顔をした方が乗ってきました。その方が赤ちゃんの方に近づいていきます。トラブルになったら困るな、とドキっとしました。しかし、次の瞬間、その方が「あばばば」と赤ちゃんをあやすかのように、にこやかな笑顔を赤ちゃんに見せたのです。難しい顔をしていたその方の表情と雰囲気が一瞬で変わってしまっていました。
 その方からすると、「赤ちゃんを笑顔にしてあげよう」と思われたのかもしれません。けれども、そばで見ていた私には、「赤ちゃんがその方を笑顔にした」ように見えました。
 しかし考えて見ると、赤ちゃんには、人を従わせたり、人を動かたりする力はありませんね。それどころか、自分自身のことさえ満足にはできません。ご飯も自分で食べることはできません。自分のうんちや、おしっこを片付けることもできません。
 そんな力のない赤ちゃんに私たちは、動かされていると感じることがあります。かわいい赤ちゃんがいるとみんなその子に夢中になります。
そんな赤ちゃんのために、周りが動き、人が集う。そのように、「力なきもの」「弱きもの」(=できないことを持つもの)がもつ“力”というものがあるように思うのです。
 「力なきもの」「弱きもの」とは、赤ちゃん以外にも、小さな子どもさん、高齢や病気のために体が弱った方、あるいはすでに命を終えられた人もそうです。亡くなった方に至っては全くの無力です。しかし、そういった存在が実ははたらく側の動く力になることがあります。「その方のために」という思いが原動力ともなることもあります。人が集まること、つながりや協力・連帯も実はそういった存在によってもたらされているということもあります。
 「動いている私」を動かしているものがある。力なきもの、無力なものから働きかけられ、与えられているものがある。そういうものが実は私たちのまわりにはたくさんあるのではないでしょうか。ふと、そんなことを考えるできごとでした。
 私も赤ちゃんに会うと笑顔になれるので。

※ 本文と紙面の掲載については編集部より許諾をいただいて行っております。

※ 執筆後記(紙面にはありません)
 赤ちゃんがいる場には、「磁場」があるような感覚がしていました。その子を中心に、人が引き付けられ目がはなせなくなるようなフィールドが生じているかのような。また、「無力なものがもつ力」というようなことも、ここ数年考えさせられることが多くありました。
 僧侶として「死者」「故人」の思いが、生きているものに大きな意味を持って受け止められること、また、葬儀や法事といった(動くことができない、また可視化できる存在でもない)死者・故人がそのような場を形成するような力をもっている存在であると感じていたことを、言葉にしておきたいということも考えていました。そういったことを、今回の原稿の一端に含められたように思います。
 弱者の存在は、私たちの社会にとって決して「足手まとい」や「不要」なものではありません。また他人事ではなく、私自身も弱者であるかもしれないし、弱者になるかもしれない存在でもあります。しかし、そういった弱き者、一人では生きていくことさえできないものの存在が、実は社会的な強さ、組織としての強さをもたらすということもあるのではないか。そういったことを私たちはもっと自覚的に引き受けていくべきではないかとも思っています。

 浄土真宗の僧侶という立場、仏法を語るものからすると、仏教を聞いていく、教えに遇っていくということは、そういった可視化できないものの力や、はたらきを感じられるようになっていく、考えることができるようになっていく、ということでもあるのかもしれないと思っています。

ないおん

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