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優しい沈黙

「…」
また沈黙だ…どうしよう…。

初対面やまだ慣れていない人との会話。
私はしばしば沈黙する。
何か話したいし、何か質問だってしたい。
でも、人見知りであまり人と話すのが得意でない私はなかなか言葉が出てこないのだ。

これを聞いたら失礼じゃないかな。
今の話のここをもっと詳しく聞いてもいいかな。
私のあの話したいけど、迷惑じゃないかな。

そんなことを考えていると、私は沈黙し、静かな時間を作ってしまう。
こんな時、ひょっとしたら、眉間に皺を寄せて難しい顔をしているかもしれない。

相手がよく喋る人だと、こんな時少し助かった気持ちになる。
でも相手も人見知りで沈黙する人だと、時の流れが止まっているかのような静けさがやってくる。
その数秒が、永遠に感じるのだ。
そして、そんな人見知りで沈黙する相手に対しての方が
「この人と仲良くなりたいな、もっとこの人を知りたいな」
と思うことが多いから、とても厄介だ。

恐怖の沈黙。
自分の不甲斐なさと相手に失礼なことをしてしまっているという申し訳なさで、私の躰は埋め尽くされる。
どうしよう…どうしよう…どうしよう…。
そう思えば思うほど、何も言葉が出てこない。

本当はもっと聞きたかった。
仲良くしたかった。
でも言葉が出てこなかった。
疲れてしまった。
きっと相手はもっと疲れてしまったのではないか。
そう振り返って、あの沈黙の時間に、また独りで沈黙してしまうのだ。

そんな時ある本と出会った。
『生き上手 死に上手』
遠藤周作のエッセイだ。
今やこの本は、私にとって苦しみを瞬時に癒してくれる、頓服薬となっている。
疲れそうな場面がある予感がする時はこれを携える。
カバンの中にこの本があるぞ、と思うだけで乗り切れる時がある。

この本の中で遠藤周作が「沈黙」に触れているところがある。

私たちが神や仏に祈っても、天は沈黙するが、この「沈黙」という言葉を「静寂」に置き換えることを遠藤周作は提案する。
静寂の中には、奥深いものが詰まってるがゆえに表面が静寂の形を取ることがあると、卑近な話として茶室の例をあげて語られる。
私たちが神や仏を呼んだ時の、なんの言葉もない沈黙、静寂も、神や仏の言葉が私たちの言葉と違っているために「静けさ」に感じられるだけかもしれない、と。

そしてこう語る。

沈黙とは必ずしも何も語らぬことではなく、語っている沈黙もまたあるのだ。
『生き上手 死に上手』遠藤周作

この言葉に私は救われた。
遠藤周作がここで言わんとしていることからすると、私の沈黙は小さいことである。
しかし、なかなか言葉が出てこない私の「沈黙」は、生み出そうとしている「必死な沈黙」なのだ。
そして私同様に、なかなか言葉が出てこない相手の沈黙は、きっと「優しい沈黙」なのではないか。

お互いにうまく話せない。
言葉のない時間が続く。

これを聞いたら失礼じゃないかな。
今の話のここをもっと詳しく聞いてもいいかな。
私のあの話したいけど、迷惑じゃないかな。

頭に埋め尽くされる言葉たちは、必死な私たちに、優しい沈黙の時間をくれるのだ。

もちろんこの沈黙がどんなに優しくても、この沈黙を楽しめることなんてない。
この沈黙を楽しめるようになったのなら、もうこの沈黙とはお別れの時なのだろう。

でもこの沈黙は、困惑が支配する空虚な沈黙ではないと思えた時、私は少しの安心感を得た。
心の中で、自分の頭を少し撫でてやれた。


今日も、職場でマウントを取りたがる自己主張の強い人と雑談をし、攻撃的な質問をされ続け、疲れてしまった。
答えたくないけれど、これも仕事の一環と割り切って、私は相手を否定しないように安全な答えを探し沈黙する。
相手は、何も言えない私をバカにしてほくそ笑んでいる。

私はカバンの中を思い浮かべる。
語っている沈黙は、今日も続く。

#思い込みが変わったこと

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