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江國香織「流しのしたの骨」

少女漫画が読めねえという前置き

私は少女漫画が苦手だ。最終的に付き合うであろう男女が、勘違いから互いにヤキモチを焼いたりすれ違いを繰り返したりする展開にあまり魅力を感じられない。いつも5巻くらいで飽きてしまい、最後まで読み切ることはあまりない。

少女漫画ではありがちな、ハプニング要素から始まるストーリー展開もついつい小馬鹿にしながら読んでしまう。ある日突然知らないイケメンと同居することになったり、ある日突然腹黒イケメンと恋人の振りをすることになったり。なんとなく恥ずかしい気分になって、いつもササッと読み飛ばしてしまうのである。

恐らく私は、こういう漫画にありがちな”人生の主軸に恋愛を置く世界観”にイマイチ入り込めないのだと思う。彼と会うための高校、彼と上手くいかない時にだけ登場する女友達。そういう捻くれた解釈をしてしまうのだ。

しかもそういう漫画って放っておけば映画化されるし?いつも30秒の予告を見るだけで原作を読まなくとも満足しちゃうんだよなあ。

なんて、何だか意地の悪い表現を重ねてしまったが、もちろん最近の少女漫画の内容が薄っぺらいなどと言いたいのではない。断じて違う。制作側が考えるターゲット層に私が入っていないだけの話で、悪いのは私だ。だから怒らないでほしい。


さて、ではどうして小説のレビューにわざわざ私の少女漫画嫌いを持ち出したのか。つまりは一定数の女の子たちにとって、少女漫画は恋に活力を与えるバイブルであるわけで。それならば私にとっての恋愛のバイブルは、自身の恋愛観を優しく肯定してくれるこの「流しのしたの骨」に他ならないと思ったためである。

私は19歳の夏、この小説に出会った。あまりにも好きになり過ぎて半年で5回は読んだ。そして、この先の人生で恋に走ることがあるならこの本を抱えて疾走しようと決めた。これは私の恋愛バイブルであり、同時に人生におけるお守りなのだ。

生きていく先に愛する人がいるという世界観

この小説は主人公こと子とその家族の毎日を描いたものである。恋愛要素は、本編の主役ではない。あくまで日常に寄り添う小さな刺激として扱われている。家族の誕生日を祝う場面と恋人とデートをする場面はほとんど同じ熱量で描かれる。

つまりこの本において、愛だの恋だのは全く特別なことではなく、むしろ常にごく自然な場所にあるのだ。

生きていく先に愛する人がいる。これを前提とする美しい世界観は、私を何度も安心させた。

確かにメインに置かれている話は色恋沙汰ではない。しかし現実世界を生きる私たちの多くがそうであるように、彼らにも昔確かに愛した人や今たまらなく好きな人がいる。それはそよちゃんと津下さんや、しま子ちゃんと可哀想な男の人、クリーニング屋の娘とその恋人。


しかし私はこと子と深町直人、この2人の関係が特別に好きだ。素朴で美しい。そして深町直人が終始尊い。それはもう尊い。宇垣アナは心の中にマイメロを飼っているらしいが、私は是非とも深町直人を住まわせたい。本気である。

深町直人は背が高い。そしていつでも穏やかで優しい。彼女を「こと子ちゃん」と呼び、遅刻した時は車を降りて走って会いに来るような人。

しばらく会えずにいたあとで、ちょっと背が高くなったようにみえる男のひと。
ちゃんとあたたかい格好をして、やあひさしぶりって言う言い方が自然で、ポケットから固くて甘い袋菓子をだしてくれる男のひと。
大学生で、やさしくて、食欲の旺盛な深町直人。

こと子は恋人である深町直人をこう表現している。え、尊過ぎない?恋人を表現するのにこんなに愛に満ちた答えがあるか?

この本の中には2人が明確に想いを伝え合うシーンがほとんどない。それでもこの文章だけでこと子が深町直人をどれだけ愛しく思っているかがよく分かる。

隣に居ないという愛

2人にはそれぞれ大切なものがある。こと子には両親と3人の姉弟、そして深夜の散歩や豆ご飯。対する深町直人は大学生としての生活やコミュニティ、そして彼は時にこと子との約束を反故にしてしまう程にスキーを愛している。

2人は自分たちのこうした愛すべき生活を壊さない。こと子は妹弟みんなでシュウマイを作るために深町直人とスキーに行くことをやめたし、深町直人は仲間とのハードなスキー旅行にこと子を無理やり誘ったりしない。

これがこの小説における1番の愛の表現だと思う。隣に居ない、という愛である。

深町直人がスキー場からこと子に電話をかけるシーンが何度かあった。

遠くにいる深町直人と思いがけない電話で話すのは、一緒にスキーをするよりずっと特別なことだ

こと子は電話を終えてからこう思っている。だからスキーに行かないという選択肢は間違っていなかったのだと。

このシーンで、私はずっとこういう形の恋愛をしたかったのだと気付かされた。

恋人同士であっても2人にはそれぞれの人生があって、それぞれの感情や価値観がある。彼らはそれを無意識のうちにしっかりと守っている。だから土足で踏み入ることも、必要以上に距離を取ることもしない。

誕生日当日を一緒に過ごさなかったり、1日に2回デートをしたりする。雨の日は寂しい、と言うこと子に深町直人は過剰に反応したりしない。彼はこと子の足にそっと触れるのだ。

「まだ寂しい?」
大きくてあたたかな手のひら。でも、
「寂しい」
と、私は正直にこたえた。

2人は別に、こと子が寂しいままでも良いのである。この関係性に私は泣いてしまいたいくらい憧れた。愛しい人が横にいてもなお寂しいというのならそのまま2人でその寂しさに寄り添う。私は多分、かつての恋人たちとそういう男と女でいたいとずっと願っていたのだ。


これが「流しのしたの骨」を恋愛だけでなく人生の指標にしたいと思った由縁である。

「ボーイフレンドって素敵よね。いるあいだはたのしいし、いなくなると気持ちいい」

余談ではあるが、これは私がこの本で1番痺れたクリーニング屋の娘の台詞です。ご査収ください。






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