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読解『アイデンティティと共生の哲学』(導入)

 偉大な日本の哲学者である花崎皋平さんの一冊のテクスト『アイデンティティと共生の哲学』(平凡社ライブラリー版)読解をやってみたいと思います。読解は、これまでの私の記事をベースに行うので、独自性はあるものになるんじゃないかと思うのですが、実は「思う」だけです。つまり、花崎さんについての他の人の文献には一切目を通していませんからね(興味の対象ではないからです)。
 そして、今回は「導入」として周辺事項をいくつか片付ける回にします。読解は「読書ノート」みたいにやるんじゃなくて、私からみたときのポイントに焦点を絞って行うので、多分一回で収まると思います。多分。いずれにせよ、そのための準備と思ってください。

花崎さんの哲学

花崎皋平とは

 1つ目は著者についてですが、きわめて簡潔に済ませたいと思います。直接面識があればまた違うのでしょうが、残念ながらありませんゆえ。
 アカデミシャンとしては北海道大で西洋哲学を教えていたようです。翻訳も何冊かあります。経緯は割愛しますが、大学教員を自主退官し、在野の研究者になったということが大事です。ざっくり言えばマルクス研究者=左寄り、と言って言えなくないですが、そういうことより、アイヌ民族に関することを含め、まずはいわゆる「運動」そして「生活」に密着した哲学であること、この特徴が重要であると強調しておきます。

セーフティロックを内蔵している

 この記事においては結論ではなく前提なのですが、花崎さんの哲学は、虐殺器官に堕ちないセーフティロックが内蔵されていると断言できます。そのロックがどのようにかけられているか……それは読解の中で言及できるでしょう。前提として大事なのは、何に対してロックがかけられているか、です。それは、本のタイトルの片割れである「アイデンティティ」に対してです。

アイデンティティとは

 これだけで一つに記事になるんでしょうが、個人的にそのように扱う価値のない言葉と思っています。良い機会でもありますし、読解の前以外に片付ける場所はないですから、サクッとまとめましょう。とはいえ、これはありふれた言葉ではないので、ある程度の分量にはなります。
 ちなみに、花崎さんはおおよそ一貫してこの言葉を肯定的に使います。テクストにおいては、そのことに対する留保や条件が次々と加わっていくところは読み応えがあるのですが、ここで処理するので、次の記事では触れません。ご了承下さい。

なぜカタカナなのか

 アイデンティティを日本語にすると何になると思いますか。一般的には「自己同一性」です。ただし、これはアイデンティティという言葉のニュアンスをあまりにも狭く切り詰めている訳と言えます。……というよりも、ネイティブの人にとってもアイデンティティという言葉が意味することの広さ、用法の多さについて、きちんと説明できる人は少ないと思います。ま、簡単に言うと翻訳不能だから最近はほぼカタカナのまま使われているんだ、と思ってください。

語源から

 古ラテン語、idem(同じ)n-tas(であること)、以上。この言葉については、語源から追っても有意義な解説は生まれません。ラテン語の時代から、この言葉に込められてきた(宗教的・理念的)意味や用法の方が大事だからです。
 とはいえ、「同じであること」「同一性」についても簡単にはおさえておきましょう。「同定」という言葉がありますが、そうですねぇ……例えば、見たことない昆虫を見つけたとして、こいつの正体は何だ、と思って昆虫図鑑などを見てみて、その昆虫を特定できたとき「アイデンティファイ(同定)できた」といいます。だから、UFOって何の略かというと――Unidentified Flying Object(同定できてない飛行物体)なんですね。そういうわけで、(宝石とかの)鑑定人はidentifierと呼ばれたりします。
 このように「同じであること」という一般的な意味、用法もあります。一方で、どちらかというと(用法として)マジョリティなのは、人の(自分の)アイデンティティ、といった使われ方の方です。日常用語で意味するところ(特徴とか帰属とかです)は、この記事にとって重要ではありません。重要なのは、人が何と「同じであること」が意味の根幹にあるのかということで、それはです。
 ……と、一気に宗教じみるわけですが、要するにキリスト教の三位一体トリニティってやつです(その頂点の一つは「精霊」ですが今は気にしません)。ちょっとエビデンスが示せずに恐縮なんですが、「アイデンティティという言葉が日本語にできない根本的理由は、このキリスト教の三位一体が意味の前提にあるからだ」という内容のことを言っていた学者さんがいたのを覚えています。

「アイデンティティ」は虐殺器官なのか

 実は直近のペルソナについての解説で、分量圧縮のために歴史的経緯を省いている上に、ここでも詳しくは述べないのですが……人格ペルソナという言葉は、ローマ法の時代では司法の言葉として、そしてその後はキリスト教神学(それに並列していた哲学も含みます)の内部でキータームとされてきたという歴史があります。
 そうしたとき……気づかれた方もいると思いますが、父(神)−子(人)の同一性と、「人」における、理性−身体(もくしは行動)の同一性――これらは同じものです。
 ペルソナについては(エスポジトのテクストを参照しながら)、分離と排除の装置と整理してきました。この「分離」とセットで(肯定的に)使われてきたのがアイデンティティ――(仮面である)ペルソナと人が「同じであること」、ざっくりですが、この程度の理解で問題ないでしょう。したがって、次のように結論できます。「アイデンティティ」という言葉は、同一/同一でないものの排除のための装置であり、虐殺器官である。

まさかの伏兵

 この結論を傍証するようなものがあります。アイデンティティの類語として「個性」とか「パーソナリティ」(=ペルソナリティ)が挙げられています。ただ……思わぬ言葉にも直面しました。すなわち「自分らしさ」(!)
 私は(これも最近ですが別の記事で)「自分-らしさ」という言葉の自己言及的な構造の不可解さを指摘しましたが、この言葉を、「自分(というペルソナ)と(自分が)同じであること」というアイデンティティの文脈で理解するならば、意味が通ります。通りますが……もしそうだとしたら、「自分らしさ」という言葉が、なんらかの哲学的(=よい意味で超越論的)工夫を内蔵しないで――ようするに平易に使われるならば、それは虐殺器官だということになります。なんとなく、危ないなとは思っていましたが、ほぼ決定的、といったところでしょうか。
 この際ですから、ちょっと脇に逸れますけど、心理学――基礎学としてはフロイトやラカンについて、一定の哲学的・倫理的批判を施さないと、それは虐殺器官になります。このことは、別に心理学に限ったことではなくて、例えば進化論だってそうです。フロイトやダーウィンといった、「境界」(非理性と理性、人と動物)に関わるパラダイムは、偉大ゆえに注意、といったレベルの話です。他方で、駆動し、分離と排除を生産し続けているのが、広くは人間諸科学――例えば、パーソナリティ心理学といった応用科学だ、ってことです。エスポジトの『三人称の哲学』の第一章は、まるまる人間科学のこの特性についての分析にあてられていました。私は心理学を特に攻撃したいわけではないので、他の学科も挙げておくと、人類学、社会学、歴史学、あと自然科学側でしょうが生物学などです。もちろん、哲学だってその中に含まれますし、どーしようもなく罪深い過去を持ってい……いや、いまなお「分断」のための哲学はありますね。

共生とは

 だからこそ、「哲学」をひとくくりにして特徴づけることはできません。分断のための哲学もあれば――(ここで本のタイトルのもう一つの片割れを回収するのですが)共生のための哲学もあるわけです。
 もちろん、「共生」という言葉だって使われ方次第で虐殺器官になり得ます。理由は大体わかりますよね。ようするに、包摂インクルージョンというのはしばしば、現状の(差別的な)システムの補助機能であり、現状肯定のための概念だからです。まして「アイデンティティ」と並んでいたら、「(ラビット!ラビット!)ヤベーイ!」って感じですが、花崎さんの哲学においてはもちろんそっちの用法ではありません。
 共生とは、共に−生きる(ある)ということです。敢えて対照するならば、アイデンティティが観念論的であるのに対して、共生は存在論的です。簡単に言うと……というより、まさにかんたんなことなんですが、「共に−ある」というのは誰にとっても、それが問題含みのものだろうが問題ないものだろうが、所与(自らがそこに与えられた前提)です。ただし、花崎さんにおいてはこの対抗的な主体(依然として「主体」の言説で書かれています)が特定の集団――特に民族エスニシティにフォーカスが当たっているのが特徴です。
 他方で平凡社ライブラリー版の解説において、テッサさんが「なぜ…「民族」として経験されるのかという問いについて花崎は答えていない」と書いていますが、この指摘は全くその通りなので、私は疑問としては扱いません(ようするに読解上、どうでもいいことと扱うということです)。その他、どう考えても現代的意義を持ちえない書き方エクリチュールにも、いちいちケチをつけることもやめておきましょう。

私のポジション

 せっかく記事を分けているので、私の立ち位置ポジション、旗色、肩入れ度合いを言語化してみましょう。花崎さんの哲学について、私は単に中立的というのは正確ではないです。「せっかく」と言ってしまったので正直に言うと、花崎さんについて、接点の無さ、スタイルの違い、また世代の違いの延長線上ではありますが、「マルクス哲学」とまさに「それを批判した人たちの哲学」という疎遠さもあり、関心の外でした。
 ところが、それゆえむしろ、今回決して体系的に読んでいくわけではなく、特定のテクストと向き合うにあたっては「中立的」にかなり近い読解ができるだろうと思います。そういう意味では、面識がないこともプラスに働くかもしれません。
 ただし、言わずもがなですが、中立的だから正しい読解ができるということではありません。テクストに対しては偏見は少ないけれども読解の仕方はむしろ、私の見方が強く出る(=偏見)、そういう意味です。

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