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モチベーションについて

正確には、言葉の扱いについて、モチベーションという言葉を題材にして考えてみます。哲学研究者は言葉をとても丁寧に扱います。その姿勢というか、流儀でもって、ビジネス用語を吟味しようという試みです。ただし、吟味にはいっていくと私個人の考え方に偏るので、その点あしからず。

導入

言葉には歴史がある

何か調べものをするとき、まずググるというのは私も同じですが、言葉(単語)を調べるなら、オックスフォード英語辞典にあたるというのは、マストです。この辞典のすごいところは、言葉がどのような文脈でどのような意味で使われ、そして歴史を経て、使われ方の変遷までもを網羅していることです。あー、一つの映画を思い出しました。

まぁ、OEDについては余談です。私が言いたいのは、言葉の意味というのは辞書に載っている説明や、一つの学問分野の定義が、正解ではないということです。言葉は、人々に使われていく中で意味を変え、ときに正反対の意味にすらなる、それが本来の姿であって、意味を固定することはできないということです。

もともとは学術用語

語源はラテン語のmovere。動かすという意味です。心理学における学術用語としてmotivation(モチベーション)は「個人の内部および外部に源をもつ活力の集合体」と定義されました。ま、学問の用語の定義ですから硬い文章ですが、(個人を動かす)活力といったところでしょう。
ただ、ちょっとググってみてください。モチベーションの「語源」として別の説明や解釈がたくさん見つかるでしょう。どれかが真の正解というわけではないです(まぁ、なかには明らかに間違っているものもありますけれども)。どこまで遡るかや、どのタイミングを最初と考えるかは解釈によります。

日本語の定訳は「動機づけ」

もう、この時点で曖昧に感じます。動機(motive)とは違うんですよ。でも、動機という意味でも使われていますよね。それから、やる気とか意欲という意味でも使われています。このような意味の派生が、間違いとは思っていません。言葉というのはそういうものです。ただ、私は、ビジネスシーンでモチベーションという言葉が使われる際に2つの違和感があります。

モチベーションという言葉に対する違和感

1.マジックワードになっている

これはモチベーションに限らないのですが、「これを言っておけば間違いないよね」というような言葉の使用用途に違和感があるということです。
英語のendには目的という意味もあるのですが、こういうマジックワードはしばしば、目的に対して使われます。モチベーションを高めることが目的で、そのための手段(施策・秘訣・成功事例)として云々……。こんな感じですね。ただ、目的は結論(結び)でもあります。それ以上の追求(なぜモチベーションを高める必要があるのですか)の問いを実質的に不可能にします。つまりそこで思考は終了します。

2.複雑化していっている/逆に事態を覆い隠している

「モチベーションには、内発的動機づけと外発的動機づけの2種類があります」と説明されたとき、私なら呆然となります。その2つは一体何が違うんでしょう。仮にさっきの定義でモチベーションを理解していた場合、内部だろうが外部だろうが同じことだと思うでしょう。
これは、複雑化していっている例でしょうが、複雑化させることで誰が得をしているのか。経営者でしょうか。従業員でしょうか。あるいはコンサルでしょうか。
また逆に、実際はもっと複雑な事態を、若干込み入った説明で片付けようとしているのではないでしょうか。その場合は、根本的な改善がより遠のくことになりえます。

哲学の用語にもendがある

あえての脱線ですが、哲学でも目的・結果・終了として使われる単語があります。幸福がそれですね。ギリシャ哲学など、とてもシンプルに人びとの目的は幸せである、あるいは哲学の最終目的は幸福である、といっています。ギリシャ哲学の時代は近代以降の「個人」の概念がありませんから、現代の感覚とは違うのかもしれませんが。

私個人の経験

私は、幸福という言葉を目的として使うことには注意しています。その理由は、この記事で紹介しているモチベーションに感じる違和感と同じです。
それとは別に(いや関係しているのかもしれませんが)ひとつエピソードがあります。知り合いのお医者さんとの会話で彼は私に「幸せというのは、棺桶に片足突っ込んだとき――つまり自分の人生を振り返るときになって『まぁ、色々あったけど幸せだったな』と思う、その程度のもので、(目的として)求めるようなものじゃない」と言いました。どういうことなんだろうなぁ、と考えて、次に会ったときに聞いてみようと思っていたのですが、それは叶いませんでした。彼は事故で亡くなってしまったからです。
そんなこともあって、幸福という言葉を目的としてつかう文章を目にすると、私は警戒します。つまり、〈目的・結果・終了〉――その文章、主張で、何かを終わらせようとしている。あるいは、何かを覆い隠そうとしている、そういう警戒ですね。

モチベーションについての私の見解

ということで、モチベーションに戻ってくるのですが、私は、モチベーションというものは「振り返ったとき」に感じるものではないかと思っています。もう少し現実的に言い換えると、後からついてくるものではないか、ということですね。
そして、これもあくまで私個人の考えですが、私はモチベーションで仕事はしません。仕事はやるべきこと(強制されているという意味ではありません)であり、可能な限り万全を期して臨むものだと思っています。ようするに、モチベーションのようなものでパフォーマンスが左右されるものであってはならないということです。

さいごに

私の見解は、おいておくとして、皆さんに考えていただきたいのは「モチベーション」という言葉によって、経営だったりチーム運営だったり、あるいは会社の具体的な仕組みや制度が、必要以上に複雑化していませんか、ということです。逆に、シンプルになっているんだ、ということなら、すばらしい。杞憂、失礼しました。


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