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雑記:なぜ人権が尊重されないのか

 今回は、エスポジトのペルソナ分析の「前」準備の内容になります。だから、記事としては若干タイトル詐欺で、この問いに答えるための整理……というより雑談と思って読んでください。まぁ、実質は次の記事では脇に置いておくことになるテーマを先に片付けておくためのものです。

主体(subject)はなぜサブジェクトなのか

 一般的に「勉強」というカテゴリーで私が最も苦手にしている(というより正確には手も足も出ない)のは、語学です。ようするに、英語も、ドイツ語も、フランス語も、イタリア語も、全部ダメです。まぁ、それでも辞書を眺めることはできます。そして、ずーっと以前から不思議に思っていたことがあります。それは、なんでsubjectという言葉が主体という意味になのか、というものです。
 sub-という接頭辞は、一義的には下。他に……副、亜(流)といった意味です。そして、jectは投げる/投げられるという意味です。英語の辞書を見てみると、下に投げられる→研究の対象になるもの、というのがもともとの意味だと書いてあります。だから、「今回の会議のサブジェクト(お題)は○○です」というふうに使われるわけですね。ちなみに、形容詞として使われるときは「~に従属している」「~に服従している」という意味になります。
 (名詞の用法に話を戻して)文法用語では「主語」。そして、哲学で使われるとき、主観、自我――主体という意味になります。ようは、このニュアンスのギャップが不思議なわけです。以下では、このことについて、いわゆる文献学的正確さで検討をすすめるわけではありません。エスポジトのテキスト(『三人称の哲学』第2章)からサクッと経緯らしき部分を抜き出すことにします。
 ラテン語スビエクトゥムsubjectumは、中世ラテン語から少なくともデカルトまでは「外的な調整の対象」を意味していました。つまり文字通りの意味だったわけです。こうした先行する意味に対して、最初にホッブズが、次いでライプニッツが、意味を覆して、「感覚をもち操作する活動の主体サブジェクトをつくりだした」――とエスポジトは書いています。
 すべての人間が、身分や社会的地位の違いを超えて、理性的意思の担い手として見なされる。まったく同じ理由で(人間-主体は)司法上の人格の所有者となる。こうして(人間の)権利は、主体の上位にくるのではなく、主体の基本的な属性となり、自分自身と自分に帰属するものにたいして各自が所有する権力として了解されるようになる。期を同じくして、フランス革命があらゆる人間の平等を批准し、ついには人権の時代が展開できうる歴史を迎える。とのことなんですが……

人権の時代

 「なぜ人権が尊重されないのか」を考える前に、現状はどうなのかは大事ですよね。

(人権が尊重されるためには)人間を権利の自然な主体とし、権利を人間の撤回できない属性とするだけで事足りるのだろうか、そうではないと気づくには、ただ現代の枠組みを一瞥するだけでよい。1948年の人権宣言から今日にいたるこの60年間を考慮にいれるならば、基本的権利が人類にあまねく普及していると主張することはできないだろう。そればかりか、生存に必要な物資すら保証されない人々の数がはっきり減少しているとも言えないのが実状である。……社会の法治化が進んでいるとはいえ、生存の権利に関するかぎり、飢えや病、戦争によって事実上死刑を宣告されている数百万の人々にとってはいかなる権利も遵守されてはいない、と躊躇なく断言できるほどである。

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 これを私たちは過去のテクストと言えるでしょうか。言えませんね。一歩も前に進んでいないか、あるいは悪い意味で「延長線上」に、私たちは生きています。
 だから、人権とか自由とか平等の取り組みって意味ないよね、ということが言いたいのではありません。ただし、機能していない理念・概念(ようするに人権とか自由とか平等という概念のことです)について、考えを深めたり、議論すること、これはさすがに時間の無駄です。あるいは、哲学(者)にありがちな、現実の諸問題と別の場所で超然と理想状態を考えるといったようなこと、これは一種の倫理の放棄だと思います。私は、哲学が倫理のための補助的学とは思っていません。しかし、少なくとも倫理を放棄したところに哲学の現代的意義があるとは思っていません。
 さて、「なぜ機能していないのか」について、エスポジトは人権が遵守されないのは、権利の主体である人格ペルソナ装置の特性上、必然的な結果だと考えます。その内容は次の記事を待ってくださいね。でも、ちょっとだけフライングすると、ペルソナ(仮面)という言葉が人格という意味を持つ、この隔たりがポイントになります。

主体という言葉の内部にある隔たり

 それでは、さっきの主体(subject)という言葉に戻ってみましょう。サブジェクトという言葉も同じように、正反対ともいえるニュアンス(主体/対象)を同時に持っている、いるわけです。このことが何を意味しているかが大事です。
 意味していると考えられるのは、私やあなた(ようするに自由な個人)は、自分を超える「何か」のサブなのです。「それ」に服従する存在であり、調整の対象でもあるのですが、まさにそうであることによって私たちは主体であると言われるのだ、ということです。
 「それ」とは何か。ひとつは、理性だったり道徳性だったり――ようは合理的な判断の基と想定されているものです。もうひとつは権利です。エスポジトは(権利が)「主体の上位にくるのではなく」と書いていたじゃないかと思われるでしょうが、続くテクストでは、(フランス革命によって権利が)あらゆる人間に内包された賓辞になることによって、みずからが基礎をおく自然の基層とは異なると同時にその上位にあることを曝け出す、と書かれます。
 ここの文脈を整理して私の言葉で書くとこういうことです――主体という言葉が持っていた二重化(理性的主体/権力の対象)が平等の名のもとですべての人間の内部に再導入される……人権宣言による、人間/モノという二元論が乗り越えられようとするまさにそのとき、分裂が消え去るのではなく、分裂が強化されながら人間の内部に浸透する。あたかも「人間を、生物的な身体司法上の責任能力の核という二つの領域に分割し、前者を後者に全面的に委ねているかのうようである。」主体という言葉は、本来の意味合い(=管理される対象)を(管理する側に)引き渡す論理的仕掛けだということです。

求められる主体性

 これらのことを踏まえて、どうでしょう。例えば学校や会社などで「もっと主体性を持て」とか「主体的に働きかけよう」と……表現はさまざまでしょうが、そういう言葉が日常的に使われていますね。その言説の意図を突き詰めると、個人の上位にある目的だったり役割だったりに(全面的に)「服従せよ」というニュアンスを持っているわけですが、この日常的な例外状態について、サブジェクトの二重性から考えれば納得できると思いませんか。そして、それが分割機能を持つものならば、主体的でないという選択肢も用意されています。そちらを選んだ場合、「主体ではない=仲間ではない」となるのも、すごく論理的だと思います。エスポジト風に言葉を加えるなら、私たちは外部(仲間はずれ)と通してしか、自分たちを形成することが原理的にできない、ということですし、そういう分割が一人の人間の内部にも浸透されている、ということです。
 まぁ、過去の記事でもちらちら触れていたような気がしますが、ざっとこういう理由で私は「主体」とか「主体性」という言葉をポジティブな文脈で使いません。それから、ポジティブな文脈で使っている言説を見るととりあえず警戒するようにしています。とはいえ、皆さんに対して、「主体」には気をつけようねと呼びかけるつもりもありません。私個人の問題です。
 直近、自分という言葉についてぼちぼち考察しているわけですが、上記の目線で見るならば、「自分」という平易な言葉ですら、しばしば「主体」というニュアンスが背後にあることに気づくことがあります。とはいえ、さすがに私も「自分」という言葉は使いますが、その種の「主体」とは違うようなあり方を考えないといけないと思っているところです。

平等について

 もうひとつ、平等という言葉(概念)についてです。これについてエスポジトは明示的に分析しているわけではありませんが、ペルソナ分析の一つの結論となるものです(が、次の記事を簡易なものにするためにここで片付けます)。
 さしあたって、そうですね……『仮面ライダーBLACK SUN』はとても良い作品でした。役者と怪人の造形が、です。話の内容は……色んな人が評しているので、私はコメントしません。ただ、題材としていわゆる学生運動的なモチーフが見られたのは……視聴者のターゲットが違うくないですか? だって、元のBLACKって私がリアルタイムでみてい――(歳バレ)
 さて、『BLACK SUN』のテーマの一つが「差別」でして、それを象徴する作中なんども出てくる(クソみなたいな)センテンスがあります。「人間も怪人も命の重さは地球以上、1gだって違いはない」ってのがそれなんですが、地球って何グラムなんだよとか、「重さ」は比喩だとして地球がぶっ壊れたら全滅だけどな、とか。とまぁ、この表現はどうでもいいです。(怪人は差別される対象=人間として)〈人の命の重さは違わない〉これはそうである、から始めましょう。
 しかし、非常に単純なことが見落とされており、実際には意味のない言葉だと言わなければなりません。それは、人――ある個人の命の重さは、その個人だけを切り離して考えられるものではないということです。その人が築いている周囲との関係。その周囲から得ているもの(良い評判/悪い評判)。やってきたこと。これからやるだろうこと。――こういったことをすべて埒外においてはじめて「重さは違わない」と言えるのであって、その抽象化度は、プラトンのイデアやライプニッツのモナドに匹敵します。つまり、現実ではありません。

現実の差別(分別)

 じゃあ、実際はどうかというと、人の命の重さは明らかに違っているということです。このことを無視して語られる平等など無意味です。どのように違っているのか――現実の差:肌の色による差だったり、生まれた場所、家柄による差、これらが一つ目です。そして私が焦点を当てたいのは、概念的な差……「命の重さ」というよりもはや露骨に「価値」と表現されるような差の方です。現実と概念ですから、実際は重なり合っているので、身近な例を(現実の側から)挙げることはできます。例えば、最近の話だと「高齢者は集団自決云々」の話とかですが、あの発想がヤバいのは、そこで想定されている一種の社会的価値の低さがきわめて簡単に他の属性に横滑りしていくからです。障害者、あるいは障害を持つ確率が高いと診断された命、治る見込みのない病人、精神的マイノリティ、声のうるさい子どもたち等々がそうです。
 そういうことが鮮明に、しかし平凡に表現されるのが、(まだまだ物理的に印刷されることも多い)紙――求人票です。明るい、前向き、新しいことにチャレンジ、仲間と楽しくやっていける……こっちも例には事欠きませんが、仕事をして糧を得るという基本的なところに既に価値の違い(および曖昧に表現される基準)が明示されており、私たちはそれが普通であると受け入れています。でもそれ(そのような基準に当てはまらない人には仕事を与えないこと)って、先の「集団自決」と一歩の差か、あるいは実質的には同じことです。
 皮肉を言うなら、「常識を疑え」っていう人って、こういうことに全く疑いを持ちませんよね。バカだからか頭がいいからかでいうと、後者だからでしょうが。
 このように「人は現実的にも概念的にも平等ではない」から出発して考えること。これはもうマストにしていいと思います。この視座からでないと、自分なり周囲の人たちが「なにで」「どんな基準で」人を分別しているのかについて考えることができないからです。つまり、「人は平等である」という理念・概念は、煌々と輝いていて、それに目を向けると何も見えないよ、ということです。まぁ、だから日蝕とか蝗害とかは、一つのチャンスなのかもしれませんね。

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