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読書感想:『ありのままの私』安冨歩

notoで読書感想を書いている人もいるんだから、たまには私も……ではないです、すいません。実際は、「主体概念」や「共同体」のための予備考察なんですが、できるだけ自分の意見を削りながら記事にしてみます。
以下、あくまで一冊の本から得られた情報です。2015年の本なので、現状とは違っているかもしれません。逐一、引用本文の箇所は示しませんが、完全な引用部分は[ ]で区別します。

 著者の安冨歩さんについて、一言でいうと「男装をやめた東大教授」です。メディアにもよく出ているらしいので、知っている人もいるのではないでしょうか。私はテレビを見ないので、一切知りません

研究者としての研究テーマ

(金融)[「バブルだとか、戦争とか、環境破壊とか、そういった、誰にとっても良くないことを、どうして人間は皆で一生懸命やってしまうのか?」]。20年以上研究したその答えは「自分自身でないものになろうとするから」=そのストレスの波及の結果とのことです。

女性装/本人の性自認

 トランスジェンダー。男性で、服装は女性のものを着る。恋愛対象は女性、ということでそれはかなりマイノリティ(同性愛などとの比較)とのこと。自分の性自認を理解し、受け止めるのにはかなりの時間が掛かったそうです。
 女性の格好をすると、それだけホルモンバランスが変わって、楽観的になり、精神が安定するということについて、後で知ったことだが、と言及されます。
 それとは別に、女性装について、社会が規定する「らしさ」より、「自分らしくいたい」ということが大切、ということを(上川あやさんの『変えてゆく勇気』を引用して)強調されます。
 ただし、上川さんが女性ホルモンを打つことで安心したこととご自身を比較して、[考え方や感じ方というものは、ホルモンに非常に強く依拠しているので、ホルモンを打ったら、思考パターンが変わってしまうに違いないのです。思考が何よりも大切な私にとって、そこを乱すと、極端なことを言えば、別の人になってしまいます。]と書いているのは、うーん、曖昧。先に、服装のチェンジによるホルモンバランスが変わることには肯定的でしたからね。程度の問題、あるいは、自然or不自然の違いが想定されているんでしょうか。この(上川さんとの)違いについて、あくまでテキストに寄り添うと、興味深いとしつつ、現段階では、[私には理由が分かりません。]ということでした。
 そのあと、ご自身の実体験として、女性装をする前と、以後で講演のスタイルが変わったことが紹介されます。具体的には、(地域社会の)問題の隠蔽に参加している人々の言説をとりあげて、そのおかしさと暴力性とを解明するというものから、その地域が抱えている「問題」と見えるものこそが「資源」であったり「機会」であったりする点に着目するようにに変わったそうです。……それって、(思考が)「別の人」になったってことでは?

「正常」さという暴力への反対意見

 特に日本のテレビの暴力/差別を取り上げて、[日本のテレビが下らないのは、「わかりやすさ」と称して、視聴者が事前に抱いているステレオタイプに寄りかかって番組を作るからです。そして対象となる人や出来事に対して、ステレオタイプを押し付ける。]ことだと述べられます。また、番組制作現場での制作者や出演者に対する構造的搾取も問題視され、[この状態で、面白い番組ができるはずがない]と評されます。

日本社会は「立場主義」

 社会の構成員である人間は、立場の詰め物に過ぎない。立場には役(割)が付随しており、ある立場に立った人間は、その役を果たさねばならない。果たせなかった場合は、「役立たず」となり立場を失う。立場を失った者は、「無縁者」となって庇護の対象から外れるが、自由を獲得する。……こういった主旨の論文で有名になったそうです。
 「立場主義」の蔓延による結果とは――誰が何を決めているのかわからない(責任者の不在)し、誰が得をしているのか分からないにもかかわらず、「やらなければならぬこと」が出現し、全員がその意味も考えずに必死でそれをこなすことになる、とのこと。
 立場主義から抜け出すためには、[一人ひとりが自分自身に立ち戻り、鈍ってしまった感覚を再生すべき]、ということで、自分らしさが処方箋ってことにつながってます。

無縁の原理との隣接

 網野善彦『無縁・公界・楽』が最も重要な研究と紹介されます。この本は、私は以前から持ってました。

 「無縁」については、是非網野さんの本を読んでほしいですが、安冨さんも本の中で説明されています。そのままだと、長文引用になるので、私なりの言葉を加えて簡単にまとめますと……
 ドミナントな社会は「縁」の秩序で構成されているが、その縁はときに腐る。腐った縁に対しては、勇気ある個人が「縁切り」を選択することができ、その場合、オーグジリアリーな社会に移動できる。この(社会)構造は日本に限らず、普遍的なもの。オーグジリアリーな社会秩序とは、ドミナントな社会の補助でもあり、ドミナントな社会から外れた個人にとっては(国家によるものではない)社会保障として機能していた。
 具体的事例として、江戸時代では縁切寺が「無縁所」であったことが紹介されますが、網野さんによれば他にも、遊郭やいちばと読む市場などが、無縁所です。また、特定の場所に限らない例としては、全国を旅する歌舞伎などの芸能集団ですね。

※網野さんのアイデアから書かれた小説はこちら。無縁の具体的なイメージがよく描かれています。鬼滅の遊郭編もこういう話だったら面白かったのに……時代設定が大正だから無理か。

 昔、私の小さい時ですけど、いたずらが過ぎたときに家族が怒って「サーカスに入ることになるぞ」と言われたものです。でも、そのイメージはなんとなく残ってますよね。ゲームとかに(特定の場所に定住しない)サーカス団とか出てきますもんね。あれは、無縁のことだったんだなぁ、と読んでいて思いました。

 あんまり私個人のことは書かないつもりですが、無縁と結びつけるべきものの一つにハキム・ベイのT.A.Z.があると思っています。

 T.A.Z.とは、The Temporary Autonomous Zoneの略です。アナーキズムの一種ですが、ハキム・ベイと網野さんを結びつけている人って目にしないので紹介しました。まぁ、私が知らないだけかもしれませんけど。ちなみに、英語版なら無料で全文ダンロードできるはずです。

 さて、無縁の原理のポイントですが、私がドミナント/オーグジアリーと表現したのは、それらの社会が没交渉ではなかったということです。安冨さんも挙げる歴史的な具体例は、大名同士の仲介をするのは(無縁者である)お坊さんだったのです。このように、無縁は、社会の一部として機能していたんですね。

 しかし、近代国家の誕生以降、法律には例外などなく、無縁所は認められなくなります。ただし、無縁の原理は普遍的であるがゆえに、現代社会でもどこかで作動しているはず、と安冨さんは述べます。
 その一つをマツコ・デラックスさん(という個人に)見て、マツコさんについての詳しい紹介があります。ピックアップすると、マツコさんの著書の中に「差別されているから笑われているし、仲間はずれだから許されてる」という一節があり、安冨さんによれば、仲間はずれとは、利害関係の外ということであり、それゆえ誰にとっても敵でも味方でもない。これは、無縁の原理であるってことですね。無縁の原理の特徴は、無主(非-支配)、無所有(所有の対義語としての使用)の原理であり、平和ということです。

日本特有の寛容さと現代の抑圧/暴力

 安冨さんは異性装に関する寛容さについて、三橋順子『女性と日本人』を引用しつつ、ご自身の実体験をもとに肯定します。普遍性が特徴なのに、いきなり「日本特有の」と言われても困るのですが、異性装者は職能者の一種と理解することで、網野さんの無縁と整合しているということのようです。(?)
 少し先のページでは、同性愛についても、日本は世界最高水準で寛容であることに言及され、異性装や同性愛(今の言葉でいうLGBTQ)の生き方を「性同一性障害:gender identity disorderとして」治療しようするのは権力による抑圧の一形態――別の場所では[同性愛に対する抑圧は、人間社会の厄介ごとを増やす、反社会的な暴力]だと、つよく反対意見が述べられます。
 gender identity disorderについては、それぞれ単語に分解して、詳細に説明されています。アイデンティティという言葉が、翻訳不可能な言葉であることについての、素晴らしい分析は(安冨さんも、これは別のテーマだと書かれているように)一旦保留しまして、disorderですね。辞書をひくと、単純に「障害」(者)となるのですが、安冨さんは「無秩序」という意味――つまり、既存秩序に当てはまらないもの、で取るべきだと言います。そして、そのことと無縁を結びつけるわけです。
 私としては、disorderについては、そもそもそういうふうに書いてあるよね(dis- :非/脱 order:秩序/命令)、と思ったりしますが、それはさておき大事なのは、同じ論法が例えばASD(autism spectrum disorders)にも使えるのでしょうか。もし使えないのだとしたらgender identityの批判性に関する特権的地位は一体何に由来するのでしょうか。「差別されているから笑われているし、仲間はずれだから」ですか? 差別されていることが条件なんでしょうか。

本としての結論

 ありのままの私というのは、自分を、男なのかなとか女なのかなと考えることから離れるべき、つまり、そういう分類はしないでおこうというのが結論です。[分類そのものが暴力なのです]という力強い言葉は、アリストテレスか、近いところではアーレントに聞かせてあげたいところです。

自分自身がそのあり方のままに生きることが、人間に与えられた唯一の使命だと信じています。
そのような生き方は、さまざまの外部の力とぶつかりますが、それを恐れずに勇気を以って生きるべきであり、その試練から学び、成長することが、人間にとって最高の倫理だと思っています。

おわりに~タイトルに寄せて~

 これが「おわりに」で書かれ、[私はこのような考え方を、特にスピノザ(1632年〜1677年)という哲学者から学びました。スピノザは、高名な哲学者には珍しい、とても優しい顔の人で、「有徳の無神論者」と呼ばれていたそうです。私もこのような優しい表情の学者になりたい]と続きます。
 スピノザと聞いて、納得するところは多いなというのが素直な感想ですね。本の中で何度も出てきた「勇気」というのは、コナトゥスのことなんだな、とか。まぁ、無縁とスピノザはつながらんだろうなど無粋なことはなしにしましょう。ただ、一つだけ突っ込ませてください。本の最終ページに、確かに優しいスピノザの肖像画がのってますけど、これって絵だからw
 再読したからこその納得ということとしては、追加で一つ。「徳」がヒントになりました。私の記事では複数回、徳とは卓越性のことであると書いてきました。本書の後半で、急に「美しさ」がフォーカスされるんですよね。何故か分からなかったんですが、ようするに、美における卓越性が志向されているということでしょう。つまり真善美との観念的な連結です。この点、私は誤解してました。「ありのままの自分」あるいは「自分らしさ」というのは、そのような卓越性からの離脱だと勝手に思っていたのですが、安冨さんのテキストに寄り添えば、離脱はあくまで、立場/役割からの離脱であって、卓越性からではないのです。つまり、美という卓越性による、そうでないものに対する形式的な暴力については肯定的だということです。「一次大戦以前の軍隊は美しさを競い合っていたけれど、一次大戦以降は(戦争が合理化することで)それがなくなった」と嘆いていることに違和感がありましたが、このように考えると、すっと腹落ちしますね。
 私の感想としては、(真善美の筋の)倫理と連結している自分らしくあることは、2022年において時代の先端でありかつ時代遅れなものだと思います。

さいごに

 この本が出版された2015年以降、今ではさらにLGBTQや「ありのままの」自分といったことへの関心が高まっているように思います。買ってすぐに読んだときには、哲学とはまた違った角度で、社会課題への対抗戦術になりうるな、と思っていました。今回、改めて読み直して、対抗戦術として欠けているものがあり、それは残念ながら致命的な欠点だと思っています。具体的には、(社会は知りませんけど少なくとも)企業では、「立場主義」は克服されていて、「ありのまま」であることが創造性=競争力に直結するものとして大事にされています(ホールネスってやつです)。つまり、虐殺器官として使われないようにするセーフティロックが「ありのままの私」にはかかっていません。あるいは、そのような「私」は、主体概念のモデルとして採用できない、ということでもあります。「ありのままの私」が可能か、不可能かの話ではなく、それは明らかに可能でかつ、権力側の洗練された道具になっていると私は考えます。

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