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科学は暮らしをよくするか

科学史、科学哲学などの観点に頼りながら(できるだけ専門用語なしで)考えてみます。
久しぶりに「ビジネスと哲学」ジャンルの記事を書こうと思うのですが、その前提になるものなのでウンチクを含みます。

科学(science)についての3つのウンチク

 いきなりですが、例えばウィキペディアの「科学」のページなど参照しません。ブリタニカにそう書いてあるようですが(それが妥当かどうか以前に)、もう一歩手前に確認しておくことがあります。

自然科学と人間科学を含む

 私たちが科学と聞いて、とりあえず思い浮かべるのは物理とか化学とかの自然科学です。高校で科目としてあったわけですから、そりゃそうですよね。しかし、英語のサイエンスという言葉は基本的に「学問」というニュアンスです。とはいえ、学術雑誌の「サイエンス」ってありますよね。あれはもろに自然科学に偏っている(だって「ネイチャー」と競合するぐらいですから)ので、英語圏の人も自然科学の方を思い浮かべるのかもしれませんけど。
 誤解を恐れず、親しみやすい言葉を使うと理系も文系も含みますよ、ということです。それで、文系を表現する言葉がこれまた微妙で、人文科学といってみたり精神科学といってみたり、ま、無難なところで人間科学でいいんじゃないんですか。
 じゃあ、どの学問分野がどっちに分類されるのかというのは、ある程度詳しい人なら知っているように、ぶっちゃけそんな分類できません。あるいは意味ありません。経済学を例にしてもゴリゴリに数字を使う経済学から、その成果といわゆる地政学などを組み入れながら政策提言レベルの議論をする経済学もあります。つまり、文系理系の区別は、学問の現場では気にすることではなく、気にするとしたら学問分野の横断(学際的といわれるやつです)の方、というのが実際のところです。だって、そもそも学問として同じもので、違い(学問分野)があるとすれば、(検証含めた)方法論の違いですから。

日本語の科学は誤訳

 極論、科学は誤訳ともいえます。でも経緯からすれば、それもやむなしなのです。
 もともと西欧には学問がありました。それが発展していく中で、扱う対象や、方法の違いから分野に分かれていき、細分化されます。大きくは「学科」に分かれた状態、このときに日本に本格的に輸入されたので、scienceの訳語に「科に分かれた知の体系」という意味で「科」「学」があてられたのです。その部分だけみれば、良い訳ですが、今では誤解の元でしょう。そして、統一科学の野望も崩れた現在は、サイエンシーズと複数形で表現するのが適切だと思いますが、日本語は複数形に弱いものの、漢字という強みがあるので諸学問、あるいはちょっと乱暴に縮めて「諸学」辺りが、口にしやすい言葉として候補になるでしょう。言いにくい言葉を縮めるのは得意技ですしね。哲学だって、もともとは「希哲学」だったんですよ。

科学技術なんて言葉はない

 日本語ではわりかし馴染みのある「科学技術」という言葉は、(英語などに)訳せません。サイエンシーズ&テクノロジーズという直訳でお茶を濁すか、単に技術の意味でとっているのが現状ではないでしょうか。だって、サイエンスとテクノロジーは……そりゃ関係はしますけど、並べて一つの言葉にするようなものではないです。この感覚をどう説明するといいか……難しいですが、例えば、科学哲学ってのがありますよね。学問分野でもありますし、言葉として違和感もありません。では、哲学技術はどうですか。それがどういうものか、イメージできませんよね。英語圏や西欧の人にとっては、科学技術という言葉は、そんな感じ、なんじゃないかと、まぁ、適当に思っています。
 科学技術という言葉が日本語に定着しているのも、「科学」の訳語と同じ理由で、日本に輸入されたときに、テクノロジー(暮らしをよくする技術)とセットだったからです。

科学の実態

 上記のウンチクを踏まえて、科学の定義を知りたい人はウィキペディアを見てください。私は定義よりも実態の方からアプローチしてみます。

運営しているのは誰か

 「誰か」と書いてますが、もちろん個人ではないですよね。ここはイメージ通りだと思うんですが、まずは大学などの教育機関や研究機関。それから学会を代表とする査読(検証)のシステム。査読後の媒体として、ちょっと触れた例えば「ネイチャー」などの学術雑誌などがある。他にもいっぱいありますが、大雑把にはこんなもんでしょう。
 しかし「誰か」という言葉の意味は、ここからです。それらの活動のお金を出しているのは誰なんでしょうか。例えば、学会に所属しようと思ったら、学会費を払わないといけません。つまり一人ひとりの研究者……ではないんですね。それは小さな話なんです。学会は勝手につくれるものではありません。認定する人がいます。○○研究会とか、研究費も、認定する人がいます。それは大学の場合もありますが、大学が大学であることを認定をするのは――国なんですね。

お金がないと科学はできない

 研究活動にはお金がかかります。あるいはお金をかけないと成果が出せません。成果の出ない研究は打ち切られます。つまりプロセスとして、研究が成果につながることのプランを明確に示し、キーマンを説得し、研究費を確保したのち、研究者たちを適切にマネジメントして、実際の成果物をアウトプットする。そのアウトプットは、ぶっちゃけお金になるかどうかで評価される。これが、科学の実態です。
 企業みたいじゃん、と思われるかもしれません。まぁ、そうですね、というのが答えです。特別な個人(わかりやすい表現としては天才)のアイデアで一気に成果物が生まれる、というのは科学の営みのごく一部分を切り取っているかあるいは、そもそもただの物語です。世俗を離れて研究してるってのは、どっちかというと発明家(テクノロジーの人)ならありえるかもしれません。

科学は中立ではない

 さて、科学の実態が上のようなものだとしましょう。もちろん、人間科学でも同じです。そしたら、科学は中立ですか、というとこれは愚問で、そんなわけないんです。単純化すると、国にとって有益でないものはお金を出してもらえないし、もっというと有害なものは、科学の正規のフィールドから排除されます。だから、この小見出しは言葉足らずで、「科学は中立ではありえない」が正確な表現です。人間科学が――とこのように曖昧に書くことを避けるなら――心理学と医療が「正常」と「異常」を区別し、人びとを(国の都合のいいように)管理したか。フーコーはそれを暴くのですが、別にフーコーに頼らなくたって私たちの想像の及ぶ範囲でも十分イメージできますよね。

 ここでいったん、記事のタイトルへの答えを書くことができます。科学は(国の都合のいいように人びとの)暮らしをよくします。ウンチクのせいでテクノロジーを科学と分けましたが、テクノロジーの実態だって、官と民のバランスが違う程度(したがって需給の要因が働きやすくなる)で、構造としては同じことです。

きちんと知りたい方はこの本を手にとってみてください

科学と真実

科学の役割

 それでも、「科学とは真実を明らかにするものだろ」と思う人がいるかもしれません。真実は中立とか、真実は一つとか(どっかの探偵みたいな)思い込みが背景にあるのは分かった上で、私の見解は、「その通り!」です。皮肉ではありませんよ。私は科学の役割は、(中立は無理ですが、一定の限定の上での)客観的な事実を示すことだと思っています。それが、どのような結果をもたらすかとかは、心配しなくていいです。そっちは哲学が引き受けますので。
 不遇の研究者とか、映画に登場したりしますよね。自然災害を予測していたけど、誰にも相手にされなかったとか。もちろん、映画なので物語なんですが、現実にもいるんです。当然、多くの場合、個人じゃなくてチームですけどね(個人で科学をする時代は遠い過去です)。

科学の中でのコンフリクト

 最近、「不都合な真実」って言葉をよく目にしませんか。大きなキッカケは、アル・ゴアさんの本? 映画? どっちが先か知りませんが、そのタイトルですけど、あれ自体が真実から程遠いので、ややこしい……忘れましょう。いずれにせよ、キャッチーな流行り言葉です。あまりにも流行り過ぎて、科学の正規のフィールドにいる人が使い始めていますが、不都合な真実って、どっちかというと正規のフィールド(例えば大学)を追われた研究者たちが使う言葉だったんですよね。ありきたりなところでは、ジェンダー平等とかいってるけど、そもそもつくりが違うし、とかですね。あとは気候変動ですが、それは次の記事に残しておきます。
 事例はさておき、ついでにその妥当性もさておき、科学という概念的な枠組みの「中で」正規に認定されているものと、そうでないものとの間に軋轢があるということは知っておきましょう。

暮らしをよくするのはどちらか

 科学の中の話としては、どっちがより客観的かとか、軍事に転用できることばっかりやりやがってという非難で済むのですが、私たちの暮らしにとってはどうでしょうか。この観点で考えることが大切です。そしてこればっかりは、ケースバイケースです。国からお金をもらっている方が役に立つこともあれば、権威ある科学のエビデンスを前提にする政策によって、暮らしが悪くなることもあります。その場合、しばしば不都合な真実を主張する人たちの方が、客観的であることだって、十分ありえます。
 そして、これがマジで一番大事なことですが、ある事象に対して複数の異なる科学的見解があったとき、どれが正しいかを私たちは判断することが原理的にできません。ぶっちゃけ、科学者だって「権威」という尺度をとってしまうと、できません。え、哲学者ならできるだろうって? バカな。そんな超越論的な立ち位置に現代の哲学はありませんよ。無理です。
 つまり、判断できないのに決めるしかないのです。「暮らし」ている人が。ミスったらダメージがあることを覚悟して。それをしないで、決めるのを専門家に任せると、マッチポンプしか残らないんです。国(あるいは国際機関)がお金を出して、都合の良いアウトプット(社会課題・ニーズ)がだされ、その解決方法についても同じお金で動いている人が決定するのは、それはもう言葉の通りマッチポンプです。それだと「誰も得をしない」というのは、嘘ですよ。得をする人たちがいます。ただし、ほぼ確実に「暮らし」ている人ではないです。

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