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SDGs・脱炭素補遺:西欧思想の相対化

SDGsと脱炭素の記事がよく読まれています。しかし、(当然ながら)あの記事の内容は偏っています。その均衡をとることはできませんが、どのように偏っているのかということを、私が哲学者紹介を書く理由と合わせて説明する――あるいは弁明することを試みたいと思います。

R2Hの記事の効果と私の意図

 「地獄への道は善意で舗装されている」The road to hell is paved with good intentions……以下長いのでR2H(地獄への道)を略しましょう。まず、ビジネスのジャンルにおけるテーマに対する哲学的吟味。これが立て付けです。吟味には、(背景などの)整理と批判(クリティシズム)が含まれます。そして、読まれた結果、あるいは感想――これは読者に開かれています。どのように受け取られるかは、あらゆる記事と同様に書いた者の手を離れているということですが、とはいえ、SDGsに関する「社会的な取り組み」に冷や水を浴びせる可能性はあるでしょう。
 ただ、私の意図(それも私が所有しているわけではないので同じ意味で開かれているものですが)となると重心が違っていて、単純化して書くなら「西欧理念主義のご都合主義的/差別的特徴ときちんと距離をとりましょう」になります。この記事では、それを少し丁寧に説明(弁明)します。私の意図ですから、私の意見が他の記事より多く含まれます。だから、偏りがあるのはいいとして、間違いや誤解もあるでしょう。その際は遠慮なく、ご指摘、ご教授ください。

なぜ西欧哲学なのか

 私のnotoでの主な活動は「哲学者の紹介」(のマガジン)記事を書くことです。そして哲学といってもいろいろあるのに西欧哲学に限っています。それはなぜか。先進国の思想の源だからです。ぶっちゃけ、少なくとも現在はそれで世界が動いています。あるいは、西欧哲学を素養、教養として持っている人が、世界を動かしています。もちろん、世界情勢のダイナミズムにおいて、要因は沢山あります。そして、哲学は主要な要因ではありません。しかし、主要でないからこそ、多くの要因(政治、経済、文化等)の背景に位置しています。大事なのは、現在進行形の(アクティブな)思想を知ることです。それは決して現代哲学ではないです。いまだに古い哲学がアクティブな場合があります。どっちにしろ、根本の本体を知っておくことが大事だと思っています。
 さて、いまさらになりますが、私は哲学が好きではありません。昔は嫌いでしたが、今は「嫌いではない」ぐらいです。つまり、哲学思想とは一定の、意図的/非意図的な距離をとっています。

非意図的な距離

 当たり前のことを書きます。私は日本人です(日本というネイションステートに対するアイデンティティを持っているかどうかとは別の、属性としての日本人ということ)。西欧の人からは中国人と区別がつかない、とか、(総じて)イエローモンキーとか思われているかもしれない、そういう日本人です。つまり、西欧哲学の当事者じゃない。その伝統にも属していない。当たり前でしょ。これが意図と関係のない距離です。ところが、哲学研究者(だけじゃないですが、話の流れ上単独表記することを許してください)の中には、その距離がゼロの人がいます。距離がゼロであることのメリットは、当事者として参加できることですが、デメリットは岡目八目が利かなくなることです。少し極端に言うと、西欧哲学・思想に対して、光の側面しか見れない(=クリティシズムが働かない)ってことです。一旦、顔を洗いに行きましょう。そして鏡を見ることです。イエローでしょ。……これで距離がとれるはずです。そういう色で区別するのが嫌なら場所でもいいですよ。僕らはオリエンタル。東にいるんです。

意図的な距離

 あ、これは書いてしまいましたね(筆が滑っています)。ようするに批判的にみるためにとっている、意図的な距離です。言い換えると、哲学ラブ! だったり、哲学こそ自分の(他の人にあまりない)教養だ、とか思っていない――あまり好きではない心理学的な言葉でいうなら、自尊心やプライドに結びつけていないということです。嫌いではないけど、クソなものにはクソと言える。これが大事だと思っています。

文明の衝突

 古い本で、こういうタイトルがありましたね。ここでは、世界は一枚岩じゃない程度で考えてください。

西側諸国のものの考え方はグローバルスタンダード

 西欧哲学がこだわるのは、民主主義とか正義とか自由、それからその最小単位としての主体(個人)です。「としての」というのは、個人ありきではなくて、権利とか責任の主体が必要で、その必要性から主体概念が構築されているという意味です。んでまぁ、勝手にそういうふうに思っている分には、いいんですけど、そういうフィクションにフィクションを重ねたようなものを、どのような人間にも当てはまるもの(普遍性)として周りに押し付けてくるので、(彼らと付き合うなら)否応なくそのフィールドで勝負することになります。それが、グローバルスタンダードだからじゃないですよ。彼ら、グローバルスタンダードにしたんです。

西側諸国以外の国は西側諸国をどう思っているか

 まずは日本を離れて考えます。第三世界の国々(という表現がありますが)は、民主主義を必ずしも正義と思っていません。理由は簡単で(まず、民主制は統治形態の一つの選択肢だし、仮に民主主義を採用するにしてもバリエーションがあるのに)、押し付けられようとしている民主主義が、白人優先主義思想だからです。事実かどうかではなく、第三世界の国々からはそのように見えるということですね。背景には多くの事例(歴史的な経験)があるのですが、例えば、人種差別的な側面。紛争や戦争による難民(という人道危機)に対してヨーロッパなりアメリカなりが、アフリカや中東の人達にとった態度と、どこの国とは書きませんが最近の白い肌の人達にとった態度が、違いすぎます。たしかに、細かい事情は違います。しかし、大枠として同じ現象なのに、対応が違うというのは、人の命の重みが肌の色で決まっているということです。次に、ご都合主義的側面。アメリカがイラクに侵攻したときに、国際的な制裁を受けましたか? 現在の某国の侵攻と何が違うんですか。こちらも、たしかに、細かい事情は違います。でも現象としておおよそ一緒。それなのに対応が全く違う。
 そのような経験があるがゆえに、第三国は、西側諸国が都合のいいときだけ連帯を求め、(自分たちの)都合の悪いときには背を向ける――利己的で、退廃的な、偽善の塊だと思っています。思っている……というより実際にそうですよね。R2Hの記事では、その小さな一事例を取り上げた、ということです。

私のスタンス

 じゃあ日本(という国)はどうするべきか。そんなことは、学者や政治家が考えることです。そりゃ、個人的な意見はありますよ。「だからといって第三国側につくべきとはならないよね」とか「西側が間違っているから逆が正しいとはならない」とかですが、そんなの素人考えでしょ。皆さんにお伝えするようなものではありません。
 私のスタンスは、西側諸国が普遍的な権利を口にすればするほど白人優先主義が浮き彫りになる、しばらく続きそうなこの情勢において、その普遍的な権能の本体――西欧哲学に内在するというものです。なんのためにそうするのかを聞くのは野暮ですよ。意味とか意義って……皆さんがどう思われているのか分かりませんが……「無いニヒト」でしょ。

フーコーの「読書ノート」はどうなの

 パレーシアの観点から、西側諸国の正義とやらを判断できるだろうと思います。その正義の系譜(のかなり源に近いところ)からみて――しかしすでに、ざっくり言って、彼らは真実を語っていないし、だからこそかもしれませんがリスクを賭けていません。良いパレーシアの無いところに民主制(というポリテイア)は無く、悪いパレーシアに堕するなら、虐殺という結末になる。少なくとも、昔の悲劇作品では、そうなってますけど、どうでしょうね。

さいごに

 これで思想の側面の弁明はできたと、思います。しかし「R2Hの記事」に対しては、科学の側面からの弁明も必要だと思っています。脱炭素のダメダメポイントを強調しましたが、私は地球環境の問題は重大であると思っています。地球環境は、真面目に考えないと、ガチでヤバいですし、そういう生存そのものに関係するフィジカルな問題と別のところにある思想(哲学)など空虚だからです。
 そこで、地球環境についてですが、一つの記事に仕上げる知識も技量もないので、若干になりますがここでコメントします。
 地球環境と書いていますが、実際は人間にとって都合のいい環境であることが大事です(生物多様性は別の話で、そっちはそっちで人類存亡に関わる大事な話です)。つまり、自然が大事ということではありません。地球の自然な変化に逆らい、力ずくで都合のいい環境を維持/創造しないといけないということです。
 また人類の存亡がかかっているとしても、国際協調はできないと思っておくべきです。つまり温暖化によって得をする/環境問題に取り組むことで損をする国があるからですが、もはやそのような利害など小さな話――つまり、環境問題について、「政治」は相対的に重要ではありません。ようするに、なんたら主義とか言っている場合ではなく、主義が違っても協力できたら味方。地球環境を悪くするのは敵。そのぐらい割り切ることです。
 環境負荷を減らすビジネスモデルを構築する、と「経済」の人間は言いますが、地球環境については、コスト度外視をベースにすべきです。というのは、お金なんて地球が灼熱化したらどのみち意味ないし、ビジネスモデルを考える時間と努力を、解決そのものに向けるべきだからです。
 私が思うに、地球環境に関する問題の主役は「科学」です。科学は、環境変化のための技術開発、状況把握のための調査、役に立たない方策を潰すエビデンスを示すこと、こういったことが出来る唯一の営みです。
 また、重要度は第一であると位置づけていいでしょう。それはどういうことかというと、他の社会課題の解決よりも重要ということです。ごく普通に考えて、働きがいの問題よりも人類の存亡の方が大事です。もちろん、エンタメやスポーツなどといった、それをやっても一切地球環境が良くなることがないばかりか、多くの場合悪影響である、諸活動よりも重要ということです。
 「R2Hの記事」からの流れ上、地球環境の話になりましたが、人類にとっての脅威に対しては同じ重要度で臨むべきです。太陽スーパーフレアが2025年に予想されているなら(もちろん専門家ではない私はこの仮説の妥当性を判断できません)、力を尽くして対策すべきです。直撃して電気が全く使えなくなるなら……ほとんどの文明の利器は使用不能になります。

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