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地獄への道は善意で舗装されている(SDGs・脱炭素)追記

久しぶりのビジネスジャンルの記事です。SDGsと脱酸素の取り組みについて吟味してみます。

SDGsの利害関係

 SDGsはとても立派でまっとうな内容です。デザインも優れていますよね。そして内容についても、解決した方がいいに決まっていることが書いてあります。そしてその規模感ゆえに、解決するためには「だれもが」取り組まないと無理だ、といえる内容になっています。つまり、賛同している国や企業だけでなく、人類全体で取り組まないと意味がないよね、という言外の圧力がありますね。この点、まずは確認しておきましょう。
 かつてのCSR(企業の社会的責任)よりも、規模感が圧倒的に大きく、それが実現したときの利益を受ける人も大きくなっています。とはいえ、それらは表面的なもの……本音と建前という表現は適切でないかもしれませんが(SDGsを掲げ、多くの国や企業、人びとを巻き込むことの)別の目的はあって当然です。
 吟味にあたって、利害関係者をはっきりさせましょう。SDGsの大規模感は、利害関係者の規模が大きいことと直結しているわけですが、ざっくりいって政財界の利害の一致があります。

金融的側面

 分けて見ていきましょう。「財」とは広くは経済的な諸活動でしょうが、金融(投資)関係が大きく影響しています。投資家(投資ファンド)にとって、市場が安定的に成長(もしくは衰退)するよりも、個別銘柄の上げ下げ含め、大きな動きが無いとボロ儲けができません。したがって、動きがないなら作ってやれ、という思惑は当然でてきます。金融的側面としてよくESG投資が、SDGsとセットで語られるのはこういうことですね。Environment(環境)やSocial(社会)に関する取り組みをしている企業は、短期的にはコスト高になるものの、長期的な成長性が高い……なんていう統計をエビデンスにして、これまでと違う投資先に巨額の資金を動かすことで、市場に(儲けの種になる)動きを作るってことですね。

政治的側面

 お金には色がない(特定の地域や国が関係するわけではない)のと違って、政治的な利害関係者は特定の国々になります。様々なメディアで多くの研究者が指摘しているのでご存知の人が多いでしょうがざっくりまとめます。
 CSRもそうでしたが、単純に仕掛けた側に注目すればいい――つまり、西欧(ヨーロッパ)です。西欧諸国は、近年低成長でした(直近はまた事情が変わっているのですがそれは後で触れます)。一方で、インドやブラジルといった国々(後進資源国)は今まで成長していなかった分、バリバリに力を伸ばしています。これらの追いつき追いこす勢いの足を引っ張りたいと、当然西欧は思うわけです。しかし、西欧は理念の国。足を引っ張るにしても、公明正大な理屈が必要、ということで、SDGsというわけです。
 SDGsが地球のすべての国が力を合わせないといけない作りになっているのは、相手を巻き込みたいからですね。ま、手法としてはいわゆる「普遍性」というやつで、西欧の常套手段ではあります。

脱炭素が強調される理由

 SDGsには、沢山の項目があるのに、なんか地球温暖化とか脱炭素がよく話題に上がるのはなぜでしょう。それは、脱炭素が二つの理由で西欧の利害に関わっているからです。

どうやって足を引っ張るか

 一つは、足を引っ張る具体的な方法です。後進資源国の成長(生産)を支えているのは化石燃料によるエネルギーです。ようするに二酸化炭素を出しまくって成長しています。「そんなことすると気候変動で地球が住めない星になっちゃうよ」というスケールのでかい話を、しかも特定の国を非難するのではなく、「課題解決のための協力を呼びかける」形で、結果として足を引っ張る。しかも、金融も巻き込むことで資金調達の面からも絞っていく。上手ですねー。
 それに対して「お前たち(西欧)は、過去に二酸化炭素を出しまくって成長したくせに」という意見は、これはまっとうですよ。そのまっとうなことを言ったら叩かれるところまで仕組んであるのは、老獪といったところでしょう。

どうやって成長するか

 もう一つは、西欧が低成長から抜け出すための方法です。ちょっと経済学的な話(リープフロッグ現象について)になりますが、簡単にいうと、後進資源国が飛躍的に成長できた理由としてインフラがなかったからじゃないか、という説があります。有線のインターネット網や家庭に一台のパソコンなどがないからキャッシュレスが進まない、ではなくて、無線の基地局と安価なスマホをある程度行き渡れば、一気にキャッシュレス化できます。実際、インフラが整っていることは、こういう社会(生活)全体のイノベーションにとってマイナスに働くんですね。
 そうだとすると、西欧の(脱炭素の場合、化石燃料の)インフラを強制的に償却することで、西欧でもリープフロッグが狙えるんじゃないか、と考えたわけです。なんというか、一石二鳥とも少し違って……相手には足枷を与え、相手が成長した方法を環境ごと再現しようという、すごい頭のいい構想なんですよ。

脱炭素特化は科学的ではない

 気候変動に対応するには、温室効果ガストータルに取り組まないといけないはずです。また、そもそも気候変動自体、地球の寒冷化を避けるためにはある程度の温室効果ガスが必要と指摘する専門家もいます。つまり、脱炭素特化というのは、科学的でも合理的でもありません。でも、それを推し進める理由が、あるということです。
 SDGsとしては別に脱炭素に特化してないだろ、と思われますか? 関心がありましたら、見直してみてください。7-2「再生可能エネルギー」の箇所では小さい文字で「二酸化炭素を排出しない」と狙い撃ちされています。13の気候変動に関する項目ではちゃんと(複数の)温室効果ガスについて書いてありますが、ぶっちゃけ13は、気候変動の解決策ではなく、その対応をすべての国に押し付けることが主な内容になっています。私の私見になりますが、13のこの率直な文言の印象は良くないです。さすがデス・サーティーン。

企業はSDGsとどのように向き合うべきか

この大見出しは大げさです。私ごときが明確な提言はできないですからね。

西欧の現状

 時事ネタなので細かくは書きませんが、ブーメランが戻ってきてぶっ刺さっているのが現状です。冬に向けてガス(化石燃料エネルギー)が足りない。そのせいで、成長の(かなり大きな)戦略がまさに絵に描いた餅であることが見えてきた。そうすると、投資ファンドは現実的なので、さっさと別の儲け先に去ってしまう。そんなところです。一見、政治的危機に見えるかもしれませんが、私はそんなに心配していません。西欧は伝統的に有言不実行。適当なタイミングで現実路線に切り替えるでしょう。

企業(組織)としては

 企業、あるいはビジネスとしては当然それぞれ事情は違うでしょう。思い浮かべやすいところなら日本の太陽光パネルビジネスで大儲けした人がいることはよく聞くところです。一方で、ディーゼルに力を入れていた西欧の自動車産業は電気自動車に切り替えさせられた上に、そっちもポシャるとなると、ハシゴを外された思いでしょう。つまり、個々には儲けた企業もあれば、割りを食った企業もあるでしょう。そういう個別事例ではなく、全体としては次のようなことがいえると思います。
 SDGsは西欧のプロパガンダです。プロパガンダ=悪いものというわけではなくて、それが分かった上で、企業活動をSDGsに紐付けることで得られる効果はなんですか、という問いです。もちろん「正当化されている儲けのチャンス」や「会社のイメージアップの使いやすいツール」であるという判断はしてもいいです。営利企業ですからね。でも、今、SDGsに真剣に取り組んでいる企業はそういう考えだけじゃないと思います。その辺りどうやって折り合いをつけるのか……難しいでしょうね。
 私なりにダサいなと思うのは、いかに世界(先進国)のお墨付きがあったとしても与えられたゴール(Gs)を信じ込んで資源をぶっこむとか、政府の補助金が出るので(再生可能エネルギーのための)技術投資は、ほぼゼロリスクでリターンが見込める、というように金勘定だけで済ませることでしょうか。
 仮に最新技術が実用レベルまでいけたとしても、そもそも高コストで補助金なしでは事業にならないというのは、まぁ、レベルの低い経営判断でしょう。いろんなスタイルの経営があっていいと思いますが、未来から振り返って、あの企業のおかげで生活がよくなったと語られるような、そういう資源(お金、時間、人)の使い方をしてほしい思っています。
 営利を目的としない、つまりNPO等の、SDGsについて邪念なく真剣な取り組みがあることは知っています。こちらの方はより、難しいと思います。何をもって押しつけ的正義かつ相手に足枷をはめる理念体系に与して、実際のアクションを行うのか。私は、単純に、自分たち(の根拠)でゴールを設定すべきだと思います。

哲学的視点からの私見

 おそらく一般的に「正しいこと」の悪いところは以下です

  • それを人に押し付ける

  • 正しいので慎重に検討されない

  • プランB(オルタネイティヴ)という発想をしない

 これだったら、「間違ったことをしているかもしれない」と思うようなプランの方がましです。おおよそ正しいことについては科学的エビデンスがあるのですが、科学は都合よく利用される道具だという、前提で考えること(これは、あれだけ立場が違ったローティとフーコーの共通点です)、そして、企業としては、ビジネスチャンスと人々の暮らしがよくなることとは、同じではないということを改めて念頭に置くべきです。「社会的」というアーレントだったらブチ切れそうな言葉が濫用されることで、本来ならクレバーなはずのビジネスシーンで思考停止が起こっています。
 「人々の暮らしがよくなること」これをビジネスのテーマにする企業は良い企業。シンプルに、そう言えるのではないでしょうか。

さいごに

 そのために、哲学が必要――なんてこと、恥ずかしくて言えません。そうじゃなくって、いわゆる科学的エビデンスだけ見ていたら、ミスることもあるよ、程度の話です。
 記事タイトルを回収しておきましょうか。SDGsは善意の塊です。しかもゴールに向かって舗装されています。しかし、西欧が発祥なのですから、西欧のことわざは参照してもいいでしょう。おそらく、そのゴールは地獄です。

参考:SDGsについて広報の側面からコメントした過去記事です

以下追記 2022/10/14
 アガンベンは、「命令」をテーマにした論述で、西洋の文化には二つの存在論があるとし、それぞれ「あるの存在論」と「あれの存在論」とする。前者は哲学や科学の領域で使われ、後者は法、宗教、呪術(これらは分かち難い)の領域で使われてきた。近年、(オースティンなどの)言語学者だけでなく、哲学者や法学者、文学や芸術の理論形の間でも遂行文(「あれの存在論」の語法)が地位を高めているのは、現代社会において命令の存在論が言明の存在論に徐々に取って代わりつつある、とアガンベンは仮設する。このような文脈からの引用になります。

 以上を踏まえれば、宗教的なものから解放され、世俗的であろうとしているわたしたちの社会は実のところ、精神分析家が「抑圧されたものの回帰」と呼ぶような仕方で立ち戻ってきている宗教や法、呪術によって――さらには、これまで日陰に追いやられてきた非命題的な領域全体によって――密かに支配されていることになる。
 それどころか、わたしたちが暮らしている民主主義的な社会を記述するにあたっては、命令の存在論が言明の存在論の座を占めるようになった社会であると規定しておくのが適切であるようにさえ思われる。ただしこうした傾向は、命令という明瞭な形態よりもむしろ、セキュリティの名目で発せられる助言や勧告、注意といった、より陰湿なかたちであらわれる。そのさい命令への服従は、協力という体裁で遂行され、またそれが自己自身への命令という形式を帯びることもしばしばである。

『創造とアナーキー:資本主義宗教の時代における作品』月曜社、2022年、136-137頁

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