短編:周回遅れの恋だった
バレンタインなんて嫌いだ。
普段女らしさの欠片もない幼馴染が甘い香りを身にまとうと、忌々しい季節が到来したことを実感する。常日頃からお菓子作りどころか料理もしない彼女――古谷佐知(ふるや さち)が、チョコ作りに奮闘しているのだ。
既製品のそのまま食べてもおいしい板チョコをわざわざ溶かし、恥ずかしいくらい好意が丸わかりのハート型に冷やして固める。このシンプルすぎる工程のどこで失敗しているのかまるで分からないが、佐知のチョコはマズい。とんでもなくマズい。本命に渡す前に試食させられる僕――三守明史(みもり あかし)の舌が正しければ、毎年少しずつマズくなっているように思う。これは一体どういうことなのだろう。
佐知が小学生の頃から続けている陸上は、練習すればするほどタイムが良くなり、彼女は陸上部の女子の中で一番足が早い。一人の人間が、生まれながらに天から割り振られる『能力値』を、全て足に注ぎ込んだとしか思えない。いや、化粧っけがなくても妙に可愛く見える時があるので、少しばかりは見た目にも割いているかもしれないが。とにかく、陸上馬鹿で料理下手な佐知は、今年もチョコの試食を僕に頼んだ。「あーちゃん、どう? おいしいかな……?」と、食べている僕の隣で心配そうな顔をしながら。きっと心の中では、僕ではない誰かのことを想っているのだろう。
昼休み。今日も、中庭のベンチで佐知の手作りチョコを試食している。制服の上に分厚いコートを羽織って、マフラーをぐるぐる巻いても寒い。二月は昼間も寒いため外に出たくないと抗議したが、彼女は教室だと周りの目が気になるから嫌だと首を横に振った。幼馴染使いが荒くてため息が出るが、結局付き合ってしまう自分が悪いのかもしれないな、と思いながら佐知に目を向ける。
夏の間に日焼けした、運動部らしい健康的な佐知の肌も、この時期になると若干色が薄くなっていた。今まで化粧をするイメージは全く無かったが、最近色付きのリップを持ち始めたようだ。
秘めた恋心を表すように赤く艶めく佐知の唇を一瞥した後、僕はチョコを咀嚼しながら彼女の目に視線を移す。明るく元気な佐知に似あうオレンジ色のヘアピンで前髪がまとめられており、目元がハッキリ見える。アーモンドのような大きな目は、何もメイクしていない。この目で笑いかけられると僕も笑顔になり、泣かれると一緒に悲しい気分になり、怒られると即座に謝ってしまう癖がついていた。ふと、子供の頃からずっと見てきた佐知の顔が、完全に見知らぬ色で塗り固められた時のことを考える。彼女は笑っていたとしても、僕は泣いてしまうかもしれない。
すでに知らない人になった唇を視界に入れないようにして、口の中に残っていた最後の塊を飲み込む。後味が、酷く苦い。去年よりも確実にマズくなっている。アーモンドの触感も、やけに気持ちが悪かった。
「ね、どうだった?」
僕の喉が上下したことを確認した佐知が、間髪を入れずに感想を聞いてくる。期待のこもった声を聞くと、つい甘やかしたくなるが、それでは佐知のためにならない。それにチョコは実際にマズいのだ。口に残る苦味をペットボトルの水で喉の奥に流した後、体ごと隣に座る彼女の方に向き直る。さぁ、感想を言わなくては。
視線が穏やかな傾斜で交わり、座った状態でも佐知の方が僕よりも背が低いことが分かる。昔は佐知の方が高かった。中学に入った頃には完全に彼女の身長を追い抜いてしまったが、関係性は特に変わらず、普段の佐知は僕に対して姉ぶった態度をとる。僕も特に逆らわず受け入れているが、バレンタインの時ばかりは立場が逆転しているように思うのだ。
「去年よりマズいから、先輩に渡さないほうがいいよ」
「え~っ! 毎年練習してるのに、なんで?」
僕がハッキリ伝えると、佐知は後ろにひっくり返りそうなほどショックを受けて、大声で叫んだ。マズいものはマズいのだから仕方がない。こんなこと普段言おうものなら「酷いこと言った罰だよ! 自主練のランニングに付き合って!」と怒られるが、佐知はバレンタイン時期にチョコの試食を頼む間は、僕の言葉を素直に受け入れてくれる。
僕は、それが不思議で仕方がなかった。佐知は男女問わず友達が多く、身内も彼女に甘い。頼れる相手は他にもいるだろうに、なぜ僕に試食を頼むのだろう。弟分だから、マズいものを食べさせても文句を言わないとでも思っているのだろうか。それで本命の男の胃はマズいチョコを食べずに無事なのだと思うと、腹が立つ。僕は何度も試食をして、体も心も疲れてグッタリしているというのに。とんでもなく不公平だ。
「……佐知は、どうして僕にチョコの味見を頼むの」
堪らず、不満がドロリと口から溢れ出す。怒られるだろうか、と一瞬身構えたものの、佐知は僕の問いに顔色を変えることなく答えを出した。
「だって、あーちゃんに昔チョコをあげた時、すごく喜んでおいしいおいしいって食べてくれたから。チョコが好きなんだと思って頼んでたんだけど……違うの?」
予想外の言葉に驚き、僕は首を横に振って否定する。
「チョコは好きでも嫌いでもないよ。普通。というか、佐知に貰ったチョコを……僕がおいしいって言ったの? いつの話?」
「えぇっ!?」
僕の返事を聞き、佐知は今度こそ怒ったようだ。彼女のアーモンド型の目に、熱がこもる。ベンチに座ったままぐっと距離を詰められて、思わず胸が高鳴り困惑した。僕は、なぜ佐知にドキドキしているんだ。佐知は戸惑う僕に全く気づいていないようで、むっと頬を膨らませている。
「ちょっと、あーちゃん! なんで忘れてるの! 飴みたいに棒をつけたロリポップチョコを、幼稚園の時プレゼントしたでしょ?」
「あっ、あぁ……そういえば……」
佐知がチョコの形を示してくれたおかげで、当時の記憶を朧げに思い出すことができた。確か幼稚園の帰り道、佐知が「私の家に来て!」と言ったのだ。まだバレンタインのイベントを理解していなかった僕は、よくわからないまま可愛くラッピングされたチョコを貰い、なぜか二人仲良く並んで母親たちに記念写真を撮られた。今もアルバムに、ロリポップチョコとやらを頬張っている小さい僕の写真が残っていたはずだ。
「あの時のチョコは、普通に甘かった気がする……。買った物をそのままプレゼントしてくれたんじゃなかったんだ」
「ちゃんと作ったよ! あれはね、チョコを溶かして、小さくて丸いドーナツに絡めて固めたの。とっても簡単なんだから」
だから幼稚園児でもおいしいチョコが作れたのだ、と佐知が胸を張る。高校生になった今は、チョコを溶かして型に流すだけの作業で失敗しているのだが、嬉しそうに話しているのでツッコミを入れるのはやめた。
それよりも、気になることがある。バレンタインの記憶を呼び起こすと、佐知が小学校に入り陸上をやり始めた頃からチョコがマズくなったように思うのだ。佐知が一人でチョコを作り始めたのもこの頃だった。幼稚園の時は恐らく、母親と一緒にするお菓子作りが楽しくてチョコを作っていたはずだ。しかし、小学生の時に作ったチョコは明確に渡す相手がいるチョコだった。
佐知が、陸上クラブで仲良くなった先輩を好きになったのだ。学年が二つ上の先輩で、背が高くて足が速かった。男の僕から見ても頼りがいのあるカッコいい先輩で、同級生だけではなく年上にも年下にもモテていたようだ。いつも人に囲まれていた先輩は、きっと佐知の恋心にも気づいていなかっただろう。静かに終わった佐知の初恋を、僕も静かに見守っていた。いつも隣にいて、何度も話を聞いて慰めた。
その後も、佐知は毎回『先輩』という立場の誰かを好きになる。今年のチョコの送り先だって、そうだ。どうして佐知は、年上の手が届かない誰かのことばかり想って、隣にいる僕を弟扱いするのだろう。いつしか疑問は不満に変わり、佐知の好きな人の話を聞くのも嫌になっていた。ただ面倒なだけではなく、どうにも胸の奥がチクチクと痛むのだ。
「……あぁ、そっか」
僕は、なんとなく、なぜ佐知のチョコをマズく感じるか分かってきた。ただ溶かして固めたチョコが、極端にマズくなるはずがない。試食した後の感想だってそうだ。「チョコがマズいから先輩に渡すな」ではなく「僕が嫌だから先輩に渡すな」が正しい。
佐知が僕だけにくれたロリポップチョコは堪らなく甘く感じたのだから、元々、佐知のチョコはマズくないのかもしれない。
「……ねぇ、急に黙ってどうしたの?」
佐知が心配そうに、僕の顔を覗き込む。目に痛い赤いリップは、先輩を意識して付け始めたものだ。メイクだって僕のためにしてくれたら、今まで見たこともないような他人の色をしていても、きっと受け入れられるのに。
「……あのさ」
「なぁに?」
「佐知は、赤いリップじゃなくてオレンジ色の方が似合うと思うよ」
オレンジ色は、明るく元気な佐知に似合う色。チョコの話をしていたのに、佐知の顔ばかり見ていたせいだ。急にメイクの話をしだした僕に、佐知は目を丸くした後――
「もう、急に何言ってんの~? そういう話、いつもはしないじゃん!」
バシバシ、と。バレンタイン時期は基本的に僕の意見を素直に受け入れるはずの佐知が、笑いながら僕の肩を叩く。女子の力でも、何度も叩かれると痛い。
「もう、叩くのはやめてよ」
「きゃ……っ」
手首を掴んで止めて、ふと佐知の顔を見ると頬が赤かった。僕たちは幼稚園からの付き合いだが、メイクの話など一度もしたことがない。珍しく照れているようだ。まじまじと見つめると、佐知のアーモンド型の目がじわりと潤む。驚いて手首を離すと、彼女は慌ててベンチから立ち上がった。
「……っ、今日の試食はもう終わり! ありがと!」
「あっ、佐知……」
「ま、また明日よろしく! じゃあね、あーちゃん!」
誤魔化すように笑って、走り去った佐知の背中に、僕の声は届かない。例え追いかけても、陸上部の佐知を捕まえることはできないだろう。
もし僕が先輩なら、今からでも追いつき、抱きしめ、好きだと伝えられるのだろうか。チョコも苦くなく、甘く幸せな気持ちで食べることができたのだろうか。足が遅い僕は、自分の気持ちに気づくのも遅かった。
バレンタイン時期にだけ佐知が身にまとう甘い香り。彼女の背中が見えなくなる頃には、残り香も消えていた。
やっぱり、バレンタインなんて嫌いだ。
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※みんなのフォトギャラリーから素敵な写真をお借りしました。ありがとうございます。
※2022/3/15調整
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