FOLKLORE
「FOLKLORE」=民間伝承、民俗。
人生のテーマとなる言葉。
『フォークロア(民間伝承)となる物語は、語り継がれ、ささやかれるように広まっていくもの。ときに、歌い継がれることもある。空想と現実のあいだに引かれた線、真実と虚構を隔てる境界線は失われていく。憶測が、長い時を経て、事実とされてゆく。神話や怪談、寓話。おとぎ話やたとえ話。ゴシップや伝説。誰かの秘密が空に描かれて、誰もが眺められるようになる/Taylor Swift』
フォークミュージック、フォークロアファッション、フォークダンスなど、あらゆる文化に対して使われるが、総じて「古くから人づてに伝えられてきた形式、自然発生的に成立した習慣」のような意味だと理解している。
修士論文のテーマとしてもこの「フォークロア」を用いたが、今でも人生のテーマとして持ち続けたいと思っている。
なぜフォークロアか。
それはきっと、自分はどこまでいっても「人間」に興味があり、人間の欲求や野生を信じているからだと思う。
どれだけ文化が発達し、世界が進歩して快適になっても、結局私たちは人間であり、その前に動物である。誰しもいつかは死ぬし、その事実はコントロールできない。
それならばもっと人間らしく、人間くさく生きたいというのが根本にある。
フォークロアは、なにかの規律によって定められた習わしでも、トップダウン的に広まった思想でもなく、あくまで自然に、そして草の根的にじわじわと広まり、結果として文化と呼べるようになったものを指す。
そこには、効率性とか経済性とか、現代が軸としているような戦略はなく、ただそれが心地良いからとか、実際にそこに生きる人々の、リアルな声があるに過ぎない。そこに、人間の根源的な欲求というか、人間らしさみたいなものを感じる。
祭り囃子が聞こえてきたら、誰だってワクワクするように。
ただ、そうしてボトムアップ的に根付いた文化や形式は、なかなかコントロールできるものではなく、まして意図的に作れるものでもない(意図的に作られた時点でフォークロアではないという自己矛盾…)。
そのため、こと建築学において、フォークロアを体系化するのは難しく、アカデミックな計画学からは切り離されることが多い(計画されていないものを評価してしまうと、建築家の職能を否定しているようなものだし)。とはいえ、いや、だからこそなのか、そこに対する研究やアプローチは数多の建築家が試みている。C・アレグザンダーのパタン・ランゲージや、バーナード・ルドフスキーの建築家なしの建築、日本では宮脇檀のデザイン・サーヴェイ、今和次郎の考現学など、建築学におけるひとつのテーマとして、長年探求されている。
そこには、日常的な風景への愛情溢れた眼差しや、ケ(↔ハレ)にこそ美徳があるという信念を感じるし、自分もその思いが強い。
モダニズム〜現代の、浮遊感のある白くて軽やかな建築は紛れもなく建築文化の発展の結晶だが、そこに魅力を感じない。資本主義経済の原理に飲まれた商品化した建築も、文化にはなり得ない。単に古いものを賛美するというのではなく、ひとに使われた「時間」を内包する建築に、惹かれている。
建築という衣食住の一要素を生業にしているからか、自分の日常生活においてもフォークロアへの興味は尽きず、いかに野生的に、いかに民俗的に生きられるか、ということを潜在的に意識しているように思う。
「民」に対して「官」、つまりは組織のトップや国、社会の方針にただ従うのではなく、それは人間的に正しいのか、効率や利益を優先し人としての感性を度外視していないか、と、流されそうな自分に問いかける。
資本主義社会のど真ん中に生きながらも、モノとモノのやりとりにはできるだけ金銭ではなく「贈与」を介したい。金銭のやりとりは、モノの価値を数値化して扱いやすくし、等価交換で言い合いっこなしにしてしまうから、便利には違いないが、そのやりとりはそこで「完結」してしまう。しかしひとからもらったモノや、してもらったこと、にはその価値以上に贈り物であるという付加価値がつき、それを返したいという贈与の連鎖が付随する。必然的に人間関係は継続し、伝播していく。
与えたものに対して同等の見返りを求めてしまうこともあるけれど、それは贈与ではなく、別の形の等価交換になってしまうのだと思う。
完全に経済圏から独立して贈与だけで生きていくのは難しい(経済学者マーク・ボイルは実際にやってみせた)だろうが、物事の判断の軸としてそういう信念を持っていたい。
ツリー構造の組織や仕組みは、そのトップが崩れると一気に崩壊する。3.11の原発事故では、東日本全体が電力不足に陥り、一箇所集中のエネルギー供給システムの脆弱さが身にしみた。
「民俗」とは少し違うかもしれないが、コントロールの手綱を緩め、民間に委ねることでそのような不測の事態にも強い組織になる。
そういう思いから、エネルギーを自給自足するオフグリッドや、農業、一次産業に興味を持ち、大学の学部の卒業設計では、遊休農地を敷地とした「農業廃棄物をバイオマスエネルギーに変換する第6次産業拠点」なるものを提案したりした。
エネルギーも、食物も、家も自給し、知恵は分け与え、自然の循環の中に自分を位置づける。これができれば結局最強なんじゃないかと思う。パーマカルチャー(ビル・モリソン)の考え方はまさにこれだ。1970年代半ばに生まれた考え方で、それこそ草の根的に、人づてに今や世界中に広まった、一種のフォークロアだ。パーマカルチャーでは、人と自然、植物と土、動物と植物などの「モノとモノの関係性」をデザインする。そのデザイン体系はツリー構造ではなくセミラチス構造で、互いが複雑に相関し合って微妙な関係性を繊細に観察し、実践の中で調整しながら形作っていくというもの。
ヒッピー文化と結びつくのでどうしてもクセの強い思想と思われがちだが、そのメソッドは誰にでも実践できる日常的な暮らしの工夫から始まる、開かれた文化だと思っている。
今は自分なりにできる小さなパーマカルチャーとして、家庭菜園や市民農園を実践しているが、いずれはもっと大きい庭で、コンポストを作ったり、マイクロエネルギーを使ってオフグリッドを実践してみたい。