2020年 九州大学 二次試験 日本史

かっぱの大学入試に挑戦、35本目は九州大学の日本史。時代は古代・中世・近世・近代それぞれ1題ずつで4題。形式は用語記述+選択+論述。では、以下私なりの解答と解説。


第1問 「正倉院文書」『本朝文粋』

問1.解答 孝徳天皇

解説 「難波朝庭」とは難波宮のことであり、難波に朝廷が置かれたのは大化改新による。よってその時の天皇は孝徳天皇である。

問2.解答 飛鳥浄御原宮

解説 「難波朝庭」と「藤原朝庭」の間なので、大化改新の難波宮と、持統天皇遷都の藤原京の間の時期にあった「飛鳥朝庭」と言えば飛鳥浄御原宮である。

問3.解答 近江大津宮

解説 「難波朝廷」=大化改新の難波宮と、「飛鳥朝庭」=飛鳥浄御原の間の時期にあった宮となると、天智天皇の近江大津宮が該当しよう。

問4.解答 藤原朝庭

解説 「評」が「郡」と改称されたのは701年の大宝律令によってであり、大宝律令が制定されたのは平城京に移る前、藤原京においてである。

問5.解答 神護の祖父・父・兄が代々郡司をつとめてきたこと。神護自身が位分資人や中宮舎人として長くつとめてきたこと。

解説 史料中に「他田日奉部直神護が下総国海上郡の大領の司に仕へ奉らむと申す故は」とあり、自分が大領としてふさわしい理由を以下に述べている。1つは、「祖父」が「難波朝廷」で「少領」として仕え、「父」が「飛鳥朝庭」で「少領」として仕えて「藤原朝庭」で「大領」として仕え、「兄」が「奈良朝庭」で「大領」として仕えていること、つまり祖父・父・兄という神護の家系が代々「大領」「少領」=郡司をつとめてきたことである。もう1つは「神護」自身が「藤原卿の位分資人」や「中宮舎人」として「三十一」年つとめてきたことである。「位分資人」というのは中央貴族の従者であり、「中宮舎人」とは中宮=天皇の后の従者のことである。つまり神護は自分が代々郡司をつとめている一族の出身であることと、自分自身が中央で従者をつとめてきたことを根拠としたわけである。

問6.解答 藤原不比等

解説 「中宮」と「藤原卿」が姉弟で、姉は文武天皇の夫人で弟は天平9年の疫病で亡くなったということは、中宮=藤原宮子で、藤原卿=藤原四子のうちの誰かということになる。よってその父と言えば藤原不比等である。なお、藤原四子のうち「兵部卿」なのは藤原麻呂である。

問7.解答 奈良朝庭

解説 風土記の編纂が命じられたのは713年であり、平城京遷都後である。よって史料Aの中では「奈良朝庭」ということになる。

問8.解答 白村江

解説 「皇極(斉明)天皇」のころに「百済」を救おうとして敗れた戦いと言えば白村江の戦いである。問われているのは敗れた「水域」なので、地名としての白村江が答えとなる。

問9.解答 難波朝庭と飛鳥朝庭の間

解説 白村江の戦いは斉明天皇のころ、663年であり、大化改新で645年に遷った難波宮=「難波朝庭」と壬申の乱後天武天皇が672年に遷った飛鳥浄御原宮=「飛鳥朝庭」との間ということになる。

問10.解答 史料①では五十戸を以て一里としており、史料②では一戸ごとに正丁5,6人、中男1人が基準となっている。よって一郷あたりの課丁数は300~350人が目安となるはずだが、三善清行の挙げた邇磨郷の課丁数は1900人余りとなっており、多過ぎる。

解説 設問の要求は三善清行の挙げた邇磨郷の課丁数の不自然さを説明すること。条件として、史料①の戸令と史料②の『続日本紀』を用いること。見事な史料読解問題である。九州大学の坂上康俊氏らしい問題。まず三善清行の「意見封事十二箇条」の記載であるが、「天平神護年中、右大臣吉備朝臣、大臣をもって本郡の大領を兼ね、試みに此の郷の戸口を計るに、わづかに課丁千九百余人のみ有り」とあるのは、「天平神護年中(=765~767年)、右大臣吉備朝臣(=吉備真備)が、備中国下道郡の郡司を兼任し、邇磨郷の人口を試算したら、課丁(=課税の負担者)はわずか1900人余りであった」という意になる。この「1900人余り」がどう不自然か説明することになる。史料①では「戸は五十戸をもって里とせよ」とあるので、五十戸で一里が構成されることをおさえたい。設問文に「里は717年に郷に改められた」とあるので、郷も五十戸で構成されていたと考えることができる。次に史料②では「封戸の人数多少あるによりて、輸す所の雑物、その数等しからず」とある。封戸とは納めた税が貴族や官人の給与とさせられた戸のことである。その封戸の人数がまちまちであり、封戸が出す雑物(税)が、封戸によって異なると言っているのである。そのため官職や位階が同じでも給与が異なることがあるので、一戸ごとに正丁5・6人、中男1人という割合でこれからは給与を与えてほしいという意の太政官からの奏上であった。ここで重要なのが「一戸ごとに正丁五・六人中男一人をもって率となさん」というところで、正丁というのは課役負担者の成人男性(21歳~60歳)、中男は一部の課役負担の男性(17歳~20歳)であり、つまり課役負担者=課丁が一戸あたり6~7人が基準とされているということである。これを先の史料①と合わせて考えると、一郷あたりの課丁数は6~7人×50戸=300~350人が目安ということになる。ところが「意見封事十二箇条」で示されている天平神護年中の課丁数は1900人余りなので、どう見積もっても多いということになるのである。


第2問 『玉葉』『御成敗式目』『庭訓往来』『大乗院日記目録』

問1.解答 日本側:宋人・宋朝商人・船頭 宋側:和朝来客

解説 12世紀末の東アジア情勢についてうかがい知れる面白い史料。史料中の楊栄・陳七太の日本と宋それぞれでの呼称であるが、『玉葉』は日本の貴族の九条兼実の日記であり、基本的に地の文で書かれているのは日本側の楊栄・陳七太に対する認識である。一行目の「宋人」、三行目の「宋朝商人」、七行目の「両船頭」が両者の呼称にあたる。一方、史料中の「宋朝宣下を下す」以下の「」内の文章は宋朝から出されたものであり、そこで「和朝来客」と呼ばれているのが楊栄と陳七太のことと読み取りたい。ただ、個人的には宋朝宣下における「自今以後、和朝来客は伝え召すべきの由」って、「今後、日本からの来客(=日本の商人)は、こちらに連れて来い」ってことで、楊栄と陳七太に限らず、今後日本の商人は勝手させへんで、ってことのように読めるけどどうなんでしょ。慌てて大宰府が「こいつらは処分されたというように宋朝の耳に入るように」と申してくるのは、宋での貿易が今後問題なく行えるようにということを思ってのことではないのだろうか。

問2.解答 楊栄は日本生まれなので日本側で処分しても問題ないが、陳七太は宋出身であり、先例では日本で自由に処分していないのでどうするか懸念している。(68字)

解説 設問の要求は楊栄と陳七太を日本側で処分する際の懸念を説明すること。史料の後半がそのまま解答に直結する。史料の概略としては、宋で狼藉をはたらいた楊栄と陳七太について、処分したことが宋朝に伝わるようにしたいと太宰府から申し出があった。そこで両者を処分しようとするが、「しかるに楊栄においては、我が朝において生まるる所の者なり。よって科断は疑ひ無し」=楊栄は日本出身なので処分することは間違いない。「陳七太においては、宋朝において生まるる所と云々。先例、かくの如き者、自由に科断せられざるか」=陳七太は宋出身だそうで、先例ではこのような者を自由に処分していないようである。とあり、当時先例を重視する朝廷の政治からすればどうするか決めあぐねたということであろう。

問3.解答 ア:大番 イ:馬借 ウ:借上 エ:徳政 オ:酒屋

解説 中世の社会・経済に関わる基本問題。アは『御成敗式目』における守護の職掌である大犯三か条の内容なので、大番催促のことである。イは「大津・坂本の」とあり、その後に「鳥羽・白河の車借」とあるので、「車借」と対の運送業者である馬借を想起したい。ウは「馬借」や「車借」、「問丸」と並んで出ており、何らかの業者名が入ると思われるが、山王霊験記絵巻の絵図がヒントとして出されているので、借上を導きたい。エ・オは正長の徳政一揆の有名な史料である。徳政と号し、高利貸しをしていた酒屋や土倉などを襲ったのである。

問4.解答 ①、②、⑤

解説 ①の倭寇図巻は後期倭寇を描いたものとされており、後期倭寇が日本でいう戦国時代ごろ=16世紀に活発に活動した倭寇だと分かれば、①は16世紀以降でないと制作できない作品だとわかる。②の肥前名護屋城は豊臣秀吉が16世紀末の朝鮮出兵の際に築いた城なので、それ以降でないと制作できない作品である。③の伯耆国東郷荘下地中分図は有名な史料であるが、鎌倉時代における領主と地頭の下地中分を描いたものなので、16世紀より前のものである。④の一遍上人絵伝も鎌倉文化の作品であり、16世紀よりも前。⑤の唐獅子図屏風は桃山文化の狩野永徳による作品であり、16世紀のものである。⑥の鳥獣戯画は院政期の作品であり、今回の選択肢の中で一番古い作品である。

問5.解答 明兆

解説 「如拙や周文とともに」「水墨画の基礎」とくれば北山文化の明兆である。明兆は五山僧であり、東福寺の僧侶であった。


第3問 近世の産業・外交

問1.解答 ア:町人請負新田 イ:金肥

解説 江戸時代の農業の基本問題。アは「町人が資本を投下」「新田を開発」とくれば町人請負新田である。イは「干鰯・〆粕・油粕」といえば金で買える肥料=金肥である。

問2.解答 地曳網漁(地引網漁)

解説 「鰯を大量に捕獲」「九十九里浜」とくれば地曳網漁を想起したい。

問3.解答 銭座

解説 「寛永通宝」は銅銭であり、銅銭の鋳造を行ったのが銭座である。

問4.解答 会所で肥料を安く仕入れ、砂糖を取りまとめて都市で高く売れば、作り主は利益を大きく得られ、領主も会所から代金を徴収すれば利益となるから。(67字)

解説 設問の要求は会所の設置が「上下とも益」となる理由を説明すること。設問文中に「上とは「領主」、下とは「作り主」」と書いてあるので、史料の内容をよく読みこめば答えとなる。史料中の「肥しを悉く会所より兼ねて下直に買い入れ置き」「集りたる所の砂糖は、ひとつにして追々都会に積み廻し」「其仕切直段を以て」「めいめい都会に持ち行き、売り払ひたるより、作り主の方の利かたともなるべし」「会所には御益として代金にて何歩か御とり成られ」といったところが参考になる。

問5.解答 ウ:サン=フェリペ号 エ:シドッチ

解説 ウは「宣教師・信者ら26名が処刑」から、26聖人殉教の原因となったサン=フェリペ号事件を想起したい。エは「18世紀」に潜入した「宣教師」で「逮捕・尋問」されたといえばシドッチである。このときの尋問をもとに新井白石が『采覧異言』『西洋紀聞』を記した。

問6.解答 高山右近

解説 「豊臣秀吉から所領を没収」、1614年に「追放された」キリシタン大名といえば高山右近である。

問7.解答 ポルトガル船の来航を禁止し、絵踏を強化してキリスト教徒を取り締まり、寺請制度を設けて宗門改めを行い、キリスト教徒を仏教徒に改宗させた。(67字)

解説 設問の要求は島原の乱の後に幕府がキリスト教徒を根絶するために行った政策を述べること。定番な問題であるが、ポイントは絵踏の強化・寺請制度と宗門改め・キリスト教徒の強制的仏教徒への改宗・ポルトガル船の来航禁止といった点だろう。字数内でうまくまとめたい。

問8.解答 日仏修好通商条約(安政の五カ国条約)

解説 「日本が開国」した後に「外国人居留地」に「フランス人宣教師」が「教会を建設」することを認めた条約なので、フランスと結んだ日仏修好通商条約が適しているだろうが、安政の五カ国条約でも間違いではないだろう。


第4問 日本と南洋諸島 「民本主義と民主主義」「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」

問1.解答 赤道

解説 1919年のパリ講和会議で日本の委任統治領となったのは赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島である。

問2.解答 イギリス・フランス・イタリア

解説 国際連盟の常任理事国は、第一次世界大戦で連合国として戦った国である。ただしアメリカは国際連盟に不参加、帝政ロシアは革命により崩壊している。

問3.解答 ②

解説 やや難。①グアム、②ハワイ、④フィリピンは当時いずれもアメリカのものであったことがわかれば答えを導ける。やや世界史の知識が必要か。

問4.解答 ①柳条湖事件 ②塘沽停戦協定(日中軍事停戦協定) ③溥儀

解説 満州事変に関する基本問題。満州事変は1931年9月18日の柳条湖事件をきっかけに発生し、溥儀を執政として傀儡国家の満州国が建国された。事変自体は1933年の塘沽停戦協定で収束した。②の停戦協定の漢字がやや難しかったかもしれない。

問5.解答 第五福竜丸

解説 「ビキニ環礁」での核実験といえば原水爆禁止運動のきっかけともなった第五福竜丸事件である。

問6.解答 美濃部達吉

解説 「民本主義と民主主義」の著者は上杉慎吉であるが、これはなかなかわからないだろう。『憲法提要』などの著作が発禁処分を受けた憲法学者として美濃部達吉を想起したい。

問7.解答 吉野作造

解説 「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」は吉野作造が民本主義を説いた史料として把握しておきたい。

問8.解答 史料a・bとも、民本主義の定義として、政治の目的は一般民衆の幸福にあるという点では共通している。しかし、政策の決定については、史料aでは天皇が国を統治しているということを前提にしているのに対し、史料bでは、一般民衆の意向によって政治が行われるべきとしている。(129字)

解説 設問の要求は史料bに書かれている民本主義の特徴を説明すること。条件として、史料aと比較すること。「史料bに書かれている民本主義の特徴」としては、史料中の「換言すれば」以降にまとめられており、「一は政治は一般民衆の為に行われねばならぬ」「二は政治は一般民衆の意向によって行われねばならぬ」の2点に尽きるだろう。しかし条件として史料aとの比較が必要なので、特徴の2点についてそれぞれ見ると、1点目の「一般民衆の為」というのは史料a中の「人民の幸福を増進するに在らねばならぬ」といった点からも、共通した考えとみることができるだろう。しかし2点目の「一般民衆の意向」については、史料a中では触れられておらず、「君主が統治」「帝王治国」「天皇が治国の精神」と書かれているように、天皇統治という「国体」を前提としている点が、史料aとの違いとして触れる必要がある。比較する場合、共通点と相違点を整理してまとめたい。


以上で終わり。しっかりと史料を読ませる問題が多く、文学部の試験としては流石という感じです。

次は九州大学の世界史。これでラストかな。

#教育 #大学入試 #九州大学 #九大 #日本史

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