2020年 大阪大学 二次試験 世界史

かっぱの大学入試に挑戦、34本目は大阪大学の世界史。時代は近代中心だけど前近代も関係してくる。地域は東南アジア・ヨーロッパ・現代世界。問題形式としては用語記述+正誤選択+論述で大問としては1題。なかなか思い切ったことをやりなさる。では、以下私なりの解答と解説。

※問6に関しまして、2020/12/28に訂正いたしました。ご注意ください。

第1問 ベトナムと世界の歴史

問1.解答 ア:コミンテルン イ:ジュネーヴ ウ:南ベトナム解放民族戦線

解説 今年の阪大は大問1題を通して考察を深める形の出題であったが、単答形式の問題は落ち着いて設問文を読めばおおむね解答を導ける。ただ、あくまでこれらの単答は全体を解くための前提的な位置づけなのだろうなとも見て取れる。というわけで、アは「1920年」における「世界の共産党の指導機関」なのでコミンテルンと判断したい。イは「1954年」の「ディエンビエンフーの戦い」でフランスが敗れた後に締結された「停戦協定」といえばジュネーブ停戦協定である。ウは「ベトナム共和国」で結成された「ジエム政権に反対する」組織なので南ベトナム解放民族戦線と判断できる。

問2.解答 X:人民戦線 Y:日中戦争 Z:冷戦

解説 Xはやや難。「1935年」の「コミンテルン」で提唱されたものであり、コミンテルン第7回大会で示された反ファシズムの「人民戦線」形成のことであろう。Yは「1937年」「第二次国共合作が具体化」したきっかけなので日中戦争が当てはまる。Zは「1946年」に「米ソ両陣営」で「表面化」したのは冷戦である。

問3.解答 ア・オ

解説 ホー・チ・ミンの評価とその根拠を問う問題。ホー・チ・ミンを「純粋な社会主義者」と考える場合に、ホー・チ・ミンの遺言の中からその根拠とできるものを2つ選ぶ。アは「カール・マルクスやレーニンおよびその他の先輩革命家に会いに行くようなことになったとき」=ホー・チ・ミンが、自身が死去したときの説明として表現しているわけだが、ここで出てくる「カール・マルクス」も「レーニン」も社会主義革命においてその道を切り開いた人物とわかれば、これらは「社会主義者でなければ言わないことがら」と判断できるであろう。イは「わが同胞」「多くの財産・生命を犠牲」といった表現は「民族主義的な内容」と取ることができるし、「社会主義者以外でも言いそうなことがら」と判断できる。ウも「わが祖国は必ず統一される」「南と北の同胞は必ず一家につどう」という表現が「民族主義的な内容」である。エは「民族解放運動の名に恥じない貢献」というのが「民族主義的な内容」であり、「純粋な社会主義」と言い難い。オは「兄弟諸党、兄弟諸国が必ず団結を取り戻す」というのが、社会主義国の事を指し、ホー・チ・ミンが死去した1969年頃、中ソ対立が起きていたことを念頭に置いた発言だと判断できれば、これが社会主義者という立場からの表現であることに気づきたい。

問4.解答 1919年の時点でヴェルサイユ講和会議にベトナム独立を求める「アンナン人の要求」を提出したこと。ベトナム民主共和国臨時政府を樹立した際に阮朝のバオダイ帝を最高顧問に迎えたり、ベトナム共和国で共産党以外の勢力も巻き込んでゲリラ闘争を始めたり、社会主義の枠外の勢力と協力していったこと。遺言において「南と北の同胞は必ず一家につどう」とあり、資本主義陣営である南ベトナムとの統一を願っていたことがあげられる。(201字)

解説 これは難。というか設問を熟読する必要があり、試験時間内にどこまで読みこめるか。予備校の解答でも読みこめていないものが散見される。設問の要求はホー・チ・ミンが終始一貫して、社会主義陣営の提携戦略の枠に収まらない民族主義者であったと考える場合の根拠を三つ以上あげて説明すること。条件として、問1~3の資料や情報から求めること、通常の社会主義者ならしないはずの行動や発言にも注意すること。これもホー・チ・ミンの評価とその根拠を問う問題であり、問3と対になっている問題である。まず設問で「終始一貫して」とあるので、問1で示されている年表、問3で示されている遺言に至るまで、ホー・チ・ミンが人生に渡って民族主義者であり続けた根拠を示さなければならない。よって青年期のホー・チ・ミンの民族主義者的側面として、1919年時点でのベトナム独立の要求については触れなければならないだろう。次に設問で「社会主義陣営の提携戦略の枠に収まらない」とあり、「社会主義陣営の提携戦略」とは何かを考える必要がある。これについては問2の設問文中にあり、政治思想の研究をしているBさんが示してくれた、「もともと社会主義思想は(中略)自由や平等の理想自体は肯定していること」「ロシア革命後の社会主義国や共産党の内部でも(中略)帝国主義やファシズムとたたかうために(中略)『ブルジョワ民主主義』や民族解放運動を含めた幅広い勢力と提携したりこれを支援しようとする動きがあったこと」がヒントとなるだろう。つまり問1の年表中にある、「多くの階層・組織を含むベトミンを結成」したことや「中国の国民党政権の支援も得よう」としたことは「帝国主義やファシズムとたたかうために」「幅広い勢力と提携した」動きと同一であり、「社会主義陣営の提携戦略の枠」の動きと言える。一方、日本が降伏した後=ファシズムとのたたかいが終わった後で「バオダイ帝を最高顧問に迎え」たことや、1960年に「共産党以外の諸勢力も巻き込んで」「ゲリラ闘争を開始」したことは、「社会主義陣営の提携戦略の枠」外の動きであり、ホー・チ・ミンのベトナム独立にかける民族主義的な面と判断することができるであろう。また、問2で引用されているベトナムの独立宣言も、アメリカ独立宣言やフランスの人権宣言が引用されているが、これも「もともと社会主義思想は(中略)自由や平等の理想自体は肯定していること」と相反しないし、「社会主義陣営の提携戦略の枠に収まらない」とは言い切れない。一方、問3で示されている遺言の中で、問3の解答で選ばなかった選択肢のうち、特にウの「南と北の同胞は必ず一家につどう」というのは「「社会主義陣営の提携戦略の枠」ではない、民族としての統一を求めた、「通常の社会主義者ならしないはずの発言」であろうし、エの「フランス、アメリカ」に打ち勝ったことを「社会主義」の勝利ではなく「民族解放運動」の貢献と捉えていることも、ホー・チ・ミンの民族主義者的側面の根拠と言えるだろう。阪大の発表した出題意図でも、「ホーが資本主義国で学んだことや、中国国民党や連合国との協力に関わったこと以外の根拠を、青年時代から遺言までの長いスパンで探し出すことが求められている」とあり、「問いの文脈と資料を正確に」読み取る必要のある問題であった。

問5.解答 18世紀末、中欧では神聖ローマ帝国が存在していたが、ほぼ有名無実となりプロイセンとオーストリアが力を伸ばしていた。プロイセン・オーストリア・ロシア帝国はポーランドを分割し、オーストリアはチェック人やマジャール人を支配していた。東欧ではオスマン帝国がバルカン半島のブルガリアやスラヴ人などを支配して勢力を築いていたが、ロシア帝国の南下が進んでいた。ナポレオン戦争によりナショナリズムの思想が広まると、民族意識が高まりを見せることになったが、1815年からのウィーン体制で正統主義の下、ナショナリズムは押さえつけられた。しかし1848年の二月革命をきっかけに、ハンガリーやベーメンでの独立運動が起こり、ドイツ統一の動きがあらわれた。(323字)

解説 設問の要求は18世紀末から19世紀半ばの中欧・東欧の各民族の動きについて説明すること。条件として「この時期の中欧・東欧にすでに存在した帝国、帝国形成に向かいつつあった国家」「それらの諸国に支配されていた国家や民族」「ナポレオン戦争のインパクト、1815年および1848年の変化」にふれること。また、会議や条約の名前、各民族内部の主導権をめぐる対立などは、書く必要がないとのこと。要するに暗記した用語を羅列するのではなく、きちんと歴史事象を説明しなさい、と言う問題。条件が割と明確なので、これに沿っていくと良い。まず「この時期の中欧・東欧にすでに存在した帝国」とは神聖ローマ帝国・ロシア帝国・オスマン帝国であろう。オスマン帝国は「瀕死の重病人」だったかもしれないが、「東欧」に存在していたことは忘れてはならない。次に「帝国形成に向かいつつあった国家」は、神聖ローマ帝国の一員とはいえ、後にドイツ帝国の中核となるプロイセンと、オーストリア=ハンガリー二重帝国となるオーストリアであろう。「それらの諸国に支配されていた国家や民族」としては、プロイセン・オーストリア・ロシア帝国に分割されたポーランド、オーストリアに支配されていたチェック人やマジャール人、オスマン帝国に支配されていたブルガリアやギリシア、さらにはセルビアなどのスラヴ人も想定できる。「ナポレオン戦争のインパクト」はフランス革命により生まれたナショナリズムの思想の伝播であろう。「1815年および1848年の変化」としては1815年に成立したウィーン体制下でのナショナリズムの弾圧と高まり、1848年の二月革命をきっかけとするウィーン体制の崩壊、ベーメンやハンガリーでの独立運動、ドイツ統一への動き(フランクフルト国民議会やそこでの大ドイツ主義・小ドイツ主義については設問の要求とズレるので触れなくて良いだろう)、といった「諸国民の春」の出来事である。これらを説明できれば良い。大問の中においては、ホー・チ・ミンの言う民族主義の源泉を考えるうえで、西欧やアメリカにおける環太平洋革命と東欧におけるナショナリズムが位相の異なるものであることに注目させるおもしろい問題。なお阪大の発表した出題意図では「中欧・東欧(南欧ではない)が指す範囲、オスマン帝国が「ヨーロッパ史の一員」であったことなどがカギ」とあり、(南欧ではない)とはイタリアの統一運動は今回は触れるなということであろうか。

問6.解答 イ➝エ(訂正)

解説 阮朝の評価について立てた仮説を検討する問題。文章の内容と評価を検討した上で、「明らかな事実誤認」を見極めなければならない。アは「首都だったフエ」「南北ベトナムを統一した阮朝」も事実として誤っておらず(南北に分裂していた黎朝において、西山の乱で南北両政権が倒され、阮福暎により西山政権が倒され、全土が統一された)、阮朝王室の子孫にインタビューすれば阮朝に対し肯定的な意見がでるのは想定できる。イは「阮氏が南部に領土を広げた」とあるが、そもそも阮氏は南部に勢力を持っていたわけで、領土を広げたといえるか疑問であるし、何より阮朝の王であったバオダイを排除して成立した、ゴー・ディン・ジエム独裁政権下の「ベトナム共和国時代」の教科書において、阮氏に「肯定的な評価がされているだろう」というのは明らかな事実誤認ではないだろうか。ウは「タイソン反乱と戦う過程でシャム(タイ)やフランスの宣教師の支援を受ける」というのは事実であるし、民族主義的なホー・チ・ミンの影響の強い「北部のハノイ」において「売国奴的」なやりかたの阮朝が非難されるのは当然ととれる。エは「ラオスやカンボジアなどの強国の圧迫」というのが事実ではないと見ることもできるが、あくまで「山岳地帯の少数民族社会」にとっての話であり、そうした少数民族が「圧迫から守ってくれなかった阮朝」に対して否定的な評価をすることは考えられうる話である。今回問われているのは「誤りを含む文章」ではなく「事実誤認を含む仮説」なので、正解にふさわしいのはイだと考えられる。予備校の解答は軒並みエだが、阪大の出題意図では「歴史的背景の理解をもとに推論する能力」をはかっており「関連する教科書知識をもとに研究上の仮説としての蓋然性の有無」を判断することを求めており「事実知識ばかり問わない入試」に向けてと発表されているので、やはり選択肢の知識上の正誤ではなく仮説としての正しさの判断を求める問題であったと見るのが良いだろう。

➝と以前解説しましたが、改めて考察しますと、阮氏がベトナム南部に勢力を持っていたのは「南部に領土を広げた」と齟齬しない内容であり、ベトナム南部を支配していたベトナム共和国が阮氏を肯定的に評価することも事実誤認とは言えないので、イを正解とすることは不適当と思われます。一方、エで「ラオスやカンボジア」を「強国」ととらえるのは、「阮朝の評価」という文脈で考えると事実誤認と言わざるを得ないのかと思います。よってここでの正解は予備校や赤本の通りエで良いかと訂正いたしました。誤解のある解説をいたしまして申し訳ありませんでした。


問7.解答 サウジアラビアの場合:サウジアラビア王国を建国したイブン=サウードはワッハーブ王国の再興を目指してアラビア半島の統一を目指した。アラビア半島において7世紀にムハンマドによって創始されたイスラームは、正統カリフ時代の後にスンナ派とシーア派に分かれ、さらにその後、神秘主義者の下で東南アジアからアフリカに至るまで、世界各地に広まっていった。しかしワッハーブ王国を支持するイスラーム教のワッハーブ派は、イラン人の信仰するシーア派やトルコ人による神秘主義を否定し、預言者ムハンマドの教えに戻るという原点回帰を目指す運動を起こした。(250字)

イランの場合:イランではパフレヴィ―朝のパフレヴィ―2世による近代化路線が進められていたが、シーア派の指導者であるホメイニを中心とするイラン革命によりイスラームの価値観を重視するイラン=イスラーム共和国が誕生した。7世紀にムハンマドによって創始されたイスラームは、正統カリフ時代の後に、アリーとその子孫のみをカリフと認めるシーア派が生まれた。10世紀に成立したイラン人の軍事政権であるブワイフ朝はシーア派を信仰し、16世紀にイランで成立したサファヴィー朝はシーア派の十二イマーム派を国教とし、イラン人の民族意識を高めていった。(256字)

インドの場合:ガンディーはヒンドゥー教の教えにも基づいた、非暴力・不服従であるサティヤーグラハを唱えてインド独立運動を進めた。ヒンドゥー教はアーリヤ人の下で生まれたバラモン教に、民間宗教が融合して成立した宗教であった。7世紀にヴァルダナ朝が滅亡してから、ラージプートと呼ばれるヒンドゥー教諸勢力が北インドで分立した。イスラーム勢力の侵入によりデリー=スルタン朝が成立し、その後のムガル帝国においてもヒンドゥー教とイスラームは時に融和し、時に対立していった。イギリスの植民地となった後はヒンドゥー教徒を中心にインド国民会議が結成され、インドの独立に向けた運動を進めた。(279字)

イスラエルの場合:イスラエルはユダヤ人のシオニズム運動の結実として建国された。前1500年頃にパレスチナに定住したユダヤ人は、モーセによる出エジプトの後に統一王国を成立させた。やがて王国はイスラエル王国とユダ王国に分裂し、アッシリアや新バビロニアによって滅ぼされた。アケメネス朝によりバビロン捕囚から解放されたユダヤ人は一神教のユダヤ教を成立させるが、やがてローマ帝国の支配下に入り、反乱を鎮圧されて各地に離散することとなった。キリスト教の影響かにおける中世ヨーロッパにおいてはユダヤ人は差別や迫害を受け、19世紀になっても反ユダヤ主義という差別意識は強く残ることとなった。(278字)

解説 設問の要求は、「サウジアラビアの建国やイラン革命とイスラーム」「ガンディーのインド独立とヒンドゥー教」「イスラエル建国と古代ユダヤ人の宗教・国家」の中から一つの国を選び、近現代のリーダーまたは政権がよりどころにした過去の国家や宗教の興亡の歴史について論述すること。「一つの国」とあるので、選択肢はサウジアラビア・イラン・インド・イスラエルということになる。前提として「近代国家をつくろうとしたリーダーたちは、必ず直前の時代や政権を否定するが、近代化によって前の時代を超えようとするだけでなく、もっと前の歴史や宗教・文化にもよりどこをを求める」という仮説が示されている。よって問われているのは「よりどころ」となった「国家や宗教」の歴史なので、サウジアラビアであれば「よりどころ」となったワッハーブ派の信仰したイスラーム、イランであれば「よりどころ」となったのはイスラームのシーア派、インドであれば「よりどころ」となったのはインドの民族宗教としてのヒンドゥー教、イスラエルであれば「よりどころ」となったのはユダヤ教徒古代におけるユダヤ人の国家であろう。あとはそれぞれ、その歴史を論述できれば良いが、近現代とのつながりも触れられるとより大問に沿ったものとなるだろう。


以上で終わり。2020年の阪大世界史はなかなか度肝を抜かされる出題でした。出題形式もさることながら、国民国家とナショナリズムというテーマのもと、高校生に向けたメッセージ性の強い問題だったと思います。流石は歴史教育の大本命である大阪大学と言ったところでしょうか。手元に赤本・青本が無いので何とも言えないところはありますが、問6なんかは駿台・河合・代ゼミ・東進といった予備校の解答もほぼ誤っているのではないかと思われ、指導の難しさを感じます。

西日本では日本史・世界史を二次試験で課している大学が少ないので、次回は九州大学の日本史の予定。

#教育 #大学入試 #大阪大学 #阪大 #世界史

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