2020年 京都府立大学 二次試験 日本史

かっぱの大学入試に挑戦、31本目は京都府立大学の日本史。時代は古代・中世・近世・近現代。形式は用語記述で1題、史料問題1題、用語説明1題、歴史学科のみ論述1題。史料読解あり。毎度おなじみの形式です。では、以下私なりの解答と解説。


第1問

A 古代の銭貨

問1.解答 富本銭

解説 「7世紀後半」=天武天皇の時代に鋳造が始まった銅銭なので富本銭である。

問2.解答 蓄銭叙位令

解説 「和同開珎」が「流通しなかったため」発令されたものなので、元明天皇による蓄銭叙位令である。

問3.解答 ウ:村上 エ:乾元大宝

解説 「最後の皇朝十二銭」とくれば、平安時代中期の村上天皇の天暦の治による乾元大宝である。

B 国風文化

問4.解答 檜皮

解説 「寝殿造」の特徴として、屋根は檜皮葺きとなっていた。

問5.解答 大和絵

解説 「寝殿造」の内部において、「襖や屏風」に描かれていた、「日本の風物を題材とした」ものは大和絵と呼ばれた。

問6.解答 物忌

解説 「吉凶を占い」「建物のなかで謹慎」するのは物忌である。

問7.解答 蒔絵

解説 「漆で文様を描いてそこに金属粉で模様」を付けたものは蒔絵と呼ばれた。江戸時代や現代まで続く伝統工芸である。

問8.解答 陰陽道

解説 「平安時代」に「吉凶」の「判断」を行った「呪術・祭祀の体系」とくれば陰陽道である。

問9.解答 方違

解説 「凶の方角を避けて行動」といえば方違である。問6の物忌と区別しよう。

C 日蓮宗の歴史

問10.解答 日親

解説 「足利義教のころに活躍した」日蓮宗の僧侶と言えば日親である。将軍である足利義教にも弾圧され、焼いた鍋を被らされて「鍋冠り上人」と呼ばれた。

問11.解答 延暦寺

解説 「天文法華の乱」で「法華一揆」と衝突したのは京都の延暦寺である。

問12.解答 題目

解説 日蓮宗においては「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることが重要であった。

問13.解答 嘉吉の変

解説 「足利義教」が守護の赤松満祐に謀殺された事件が嘉吉の変である。

D 琉球王国の歴史

問14.解答 尚巴志

解説 「琉球王国」を建国した「中山王」で判断。

問15.解答 首里

解説 琉球王国の首都は首里である。リード文に書かれている「外港である那覇」とセットで押さえたい。

問16.解答 謝恩使

解説 江戸時代に「琉球国王の代がわりごと」に派遣された使者と言えば謝恩使である。リード文にある慶賀使とよく区別しよう。

問17.解答 調所広郷

解説 「薩摩藩」において19世紀前半に「改革に着手し」「黒砂糖の専売を強化」するなどしたのは調所広郷である。

E 国学の歴史

問18.解答 本居宣長

解説 「賀茂真淵」の門人で「『古事記伝』を著した」で判断。

問19.解答 塙保己一

解説 「和学講談所」を設置したのは塙保己一である。「古典や諸史料の収集と校訂」を行い、『群書類従』を完成させた。

問20.解答 平田篤胤

解説 「復古神道を唱え」で判断したい。

問21.解答 水戸学

解説 「『大日本史』の編纂事業」=水戸藩での事業を通じて形成されたのは水戸学である。

問22.解答 北村季吟

解説 「『源氏物語』『枕草子』の研究」で、『源氏物語湖月抄』を著した北村季吟を導きたい。

問23.解答 徳川光圀

解説 『大日本史』の編纂は水戸藩主の徳川光圀によって始められた。

F 日清戦争

問24.解答 甲午農民戦争(東学(党)の乱)

解説 「1894年」「朝鮮半島」でおこった事件で、「日清戦争」の要因となれば甲午農民戦争である。

問25.解答 陸奥宗光

解説 「下関条約」における日本全権は伊藤博文と陸奥宗光である。

問26.解答 李鴻章

解説 「下関条約」における清国全権は李鴻章であった。

問27.解答 澎湖

解説 「下関条約」で清国が割譲したのは、遼東半島・台湾・澎湖諸島であった。

問28.解答 樺山資紀

解説 「台湾」における「初代総督」は初期議会において蛮勇演説を行った樺山資紀である。


G 昭和末期の政治

問29.解答 サミット(先進国首脳会議)

解説 「第1次石油危機」による「世界的不況」に対処するため「1975年」に「フランス」で開催されたのは第1回サミット(先進国首脳会議)。

問30.解答 中曽根康弘

解説 「1982年に首相」「行財政改革」「民営化」とくれば中曽根康弘である。

問31.解答 電電公社

解説 JT(日本たばこ産業)となった「専売公社」、JRとなった「国鉄」とともに民営化されたのは、NTTとなった電電公社である。

問32.解答 ロッキード事件

解説 「田中角栄」が逮捕された疑獄事件と言えばロッキード事件である。三木武夫内閣の時である。

問33.解答 福田赳夫

解説 「日中平和友好条約」を締結したのは1978年で、福田赳夫内閣の時である。


第2問

A 『吉田定房奏状』

問1.解答 源頼朝

解説 「源平たがいに国権を専らに」した後の「元暦年中」=1185年と注があり、そのころ「天下を平定」した人物を想定すればよい。

問2.解答 北条義時

解説 「承久の後」「もっぱら国柄を持す」から、承久の乱後に力を持っていた執権の北条義時が導ける。

問3.解答 亀山

解説 「寛元の聖統」=後嵯峨天皇の皇統と注があり、「後深草院」の皇統とは別で、「当代」=後醍醐天皇に連なる皇統の始まりと読み解けるので、大覚寺統の最初である亀山天皇を想起したい。

問4.解答 後白河上皇

解説 「保元の後」に「源平」と対峙した上皇となると、保元の乱後に院政を行った後白河上皇と判断できる。

問5.解答 光仁天皇以降、天智系の皇統で皇位継承がなされているということ。

解説 史料文の「光仁」とは奈良時代末の光仁天皇の事で、その光仁天皇が世を治めてから、「皇胤すでに一統」とは、皇位継承が一つの血筋で行われているということであり、光仁天皇の前までは天武天皇の血筋が天皇になっていたが、光仁天皇は天武天皇の兄である天智天皇の孫であり、以降天智系の皇統が天皇になっていったということである。

問6.解答 平城天皇が嵯峨天皇に譲位し、平城京に移り太上天皇となった後、藤原仲成・薬子らと組み、権力を再び握り、平城京への遷都を画策し、嵯峨天皇と対立したこと。

解説 「薬子の乱」の事情を簡潔に説明する問題。ポイントとしては平城天皇の譲位➝平城京で藤原仲成・薬子らと権力を握る→平城京への遷都を命じ嵯峨天皇と対立、といった展開だろう。平城京と平安京の二つに朝廷が分裂したような形となったため、「二所朝廷」と呼ばれた。

問7.解答 安和の変

解説 「左大臣源高明が失脚」した事件と言えば安和の変である。

問8.解答 持明院統

解説 「後深草院に始まる皇統」が持明院統。亀山天皇に始まる皇統が大覚寺統である。

問9.解答 得宗

解説 「北条氏嫡流の当主」を得宗といった。

B 『魯人再掠蝦夷一件』

問10.解答 長崎

解説 史料中から「異国の船」が「外の湊にては上陸のことをゆるさず」とあるので、江戸時代に外国との窓口であった長崎を想定したい。

問11.解答 場所:根室 漂流民:大黒屋光太夫

解説 史料が「1793年」のものであり、「この前年に異国船が来航」「漂流したる人を送り来る」ということから、史料がラクスマンの来日に関するものと読み取ろう。となると、ラクスマンが来たのは根室であり、連れて来た漂流民は大黒屋光太夫である。

問12.解答 商場知行制

解説 「松前藩」が「アイヌとの交易権」を「家臣に与えていた」制度と言えば商場知行制である。「商場」というのがアイヌと交易をする場所であり、やがて商人による場所請負制へと変わっていった。

問13.解答 松前藩と蝦夷地すべてを直轄地とし、松前奉行を置いた。

解説 「その国」とは、ラクスマンの祖国であるロシアであり、ロシアとの緊張が高まったために「1807年」に幕府が行った政策の内容を問う問題。このころは蝦夷地の調査も行われていたので、いつ、何がなされていたか正確に把握していないと答えづらかっただろう。ラクスマン来日後、1798年に近藤重蔵・最上徳内らによる択捉島探査が行われ、1802年に東蝦夷地を直轄化、1804年にレザノフ来日、そして1807年に松前藩と蝦夷地すべてを直轄地として松前奉行を設置し、1808年には間宮林蔵が樺太を探査した。

C 『福翁自伝』

問14.解答 咸臨丸

解説 まず史料が『福翁自伝』であり、福沢諭吉の自伝であることを把握したい。そして史料中には「幕府からアメリカに軍艦を遣る」とあり、日本で初めて太平洋を横断しアメリカまで行った幕府の軍艦の咸臨丸を想起したい。福沢諭吉はこのときアメリカに渡ったのである。

問15.解答 勝海舟

解説 問14で咸臨丸の話だと分かれば、その「指揮官」ということで勝海舟を導きたい。

問16.解答 適々斎塾(適塾)

解説 問14で触れたように、この史料は福沢諭吉の自伝であり、福沢諭吉が「大坂」で学んだ「蘭学塾」と言えば、緒方洪庵の適々斎塾(適塾)である。

D 「ベル宛書簡」

問17.解答 教育勅語(教育に関する勅語)

解説 史料中の「高等中学校」で「丁重に承認」、「そえられた天皇の署名におじぎ」といった内容から、明治時代に掲げられた教育勅語を想起したい。

問18.解答 内村鑑三の行動が不敬として、教師を辞めることとなった。

解説 問17の解答から、この史料が教育勅語への拝礼を拒否した話であることを読み取り、内村鑑三不敬事件につなげたい。「ベル宛書簡」とは内村鑑三がベルという人物にあてた手紙だったわけである。

E 『大阪朝日新聞』

問19.解答 浜口雄幸

解説 史料が「1927年」のもので、そのころの「立憲民政党」の総裁と言えば、この数年後に首相となる浜口雄幸である。

問20.解答 国民革命軍による北伐を阻害すること。

解説 山東出兵の目的を説明する問題。当時中国では国民政府による中国統一を掲げた、地方軍閥の征討である北伐が行われていた。日本は中国進出を進めるために、北伐による中国統一がなされないよう、山東出兵を行ったのである。名目としては日本人居留民の保護とされていたが、ここでは実質的な目的を簡潔に説明するのが良いだろう。

問21.解答 首相:田中義一 事件:張作霖爆殺事件

解説 問19でも触れたように、史料が1927年のものであり、「山東出兵」が行われたころの内閣と言えば田中義一内閣である。その田中義一内閣が総辞職する原因となったのは、中国の北方軍閥であった張作霖を関東軍が爆殺した張作霖爆殺事件である。

問22.解答 済南事件

解説 「1927年」の翌年に起きた、「日本軍と国民党軍が衝突した事件」と言えば済南事件である。


第3問 語句説明

解答 『十六夜日記』:鎌倉時代、阿仏尼という女性が記した日記。息子の所領に関わる訴訟のため京都から鎌倉まで旅をした、鎌倉文化を代表する紀行文となっている。(67字)

『三教指帰』:平安時代初期の弘仁・貞観文化のころに空海が記した書物。仏教・儒教・道教のうち、仏教が最も優れているということを述べている。(61字)

『塵劫記』:江戸時代前期、吉田光由によって記された和算書。日常的な問題を掲載し、民間に広まっていき、和算や算盤の普及に一役を買った。(60字)

『節用集』:室町時代に作られた国語辞書。奈良の商人によって刊行され、町人や有力農民など、庶民における読み・書き能力の育成に役に立った。(61字)

『庭訓往来』:南北朝期から室町初期にかけて成立した、書簡形式の教科書で、往来物と呼ばれたものの一つ。武士の子弟の教育に広く用いられた。(60字)

『貧乏物語』:大正期のマルクス主義経済学者である河上肇の著書。奢侈の根絶による貧乏の廃絶を説き、大正デモクラシーを背景に広範な読者を獲得した。(64字)

解説 2020年度はいずれも著作物について説明する出題となった。ポイントとしては、「いつ」「誰が(どのような人が)」作ったもので、「どういった」特徴があるかをまとめたら良いだろう。


第4問 

A 解答 9世紀末、菅原道真が遣唐使に任命されたが、道真は唐の衰退を理由に派遣の中止を建言した。結局この遣唐使は派遣されず、10世紀初頭に唐が滅び、中国との国としてのやり取りはされなくなった。しかし商人を通じた交易は行われており、中国から輸入された品物は唐物として貴族らの間で重宝された。五代十国の時代を経て、10世紀後半に宋が中国を統一すると、宋の商人が九州の博多に来航し唐物をもたらした。国家間の通交は依然として行われなかったが、商人の他僧侶による交流も行われ、10世紀末の奝然のように、五台山への巡礼を目的に中国へ渡る僧侶も現れた。こうした動きは11世紀も同様に続いていった。

解説 設問の要求は9世紀末から11世紀にかけての日本と中国の交流について論述すること。条件として、中国王朝の変遷に触れることと、「唐物」「遣唐使」「商人」「奝然」「博多」の語句を使用すること。まずは条件である中国王朝の変遷であるが、該当時期だと唐➝五代十国➝宋(北宋)となる。ただし、9世紀末から11世紀にかけての日本と中国との交流は、実のところ大きく変化したわけではない。大枠としては「商人と僧侶による交易・交流が続いた時代」である。時期設定が「9世紀末」からとなっており、指定語句に「遣唐使」があるので、菅原道真が中止を建言した遣唐使派遣計画については触れる必要があろうが、重要なのは国家間の対外交渉がなされなかったということである。変わって、中国の商人による唐物がもたらされたこと、その窓口が博多であったこと、僧侶による往来もあったことを論述したい。僧侶の事例として、10世紀末の「奝然」が指定語句となっているが、設定範囲の11世紀には成尋という僧侶も宋に渡っていた。ただ、掲載されていない教科書も多く、具体的に触れなくとも、そうした僧侶がいたことを説明できれば良いだろう。

B 解答 幕府は最初キリスト教を黙認していたが、外国からの侵略や信徒の団結を警戒し、1612年には直轄地に、翌年には全国に禁教令を出してキリスト教を禁止した。この結果、長崎において宣教師や信徒が処刑される元和の大殉教が起こった。1637年には島原・天草地方で領主による過酷な年貢の取り立てとキリスト教徒への弾圧が行われると、益田四郎時貞を中心に島原の乱が起こった。幕府はこの乱を受け、絵踏を強化し、寺請制度を設けて宗門改めを行って仏教への強制的な転宗をさせ、キリスト教徒への対応を厳しくしていった。多くの信徒が改宗したが、中には潜伏キリシタンとして信仰を続ける者もいた。

解説 設問の要求は江戸時代前期における幕府のキリスト教の禁教政策について論述すること。条件として「元和の大殉教」「宗門改め」「潜伏キリシタン」「益田(天草)四郎時貞」の語句を使用すること。幕府の政策を説明する問題だが、時系列に沿ってまとめると良いだろう。キリスト教の黙認➝禁教令(1612年・13年)➝元和の大殉教(1622年)➝益田時貞らによる島原の乱(1637年)➝宗門改めによる徹底的な取り締まり(1638年)➝潜伏キリシタンによる信仰の継続、といったところか。具体的な年代についてはわからなくとも、1610年代・1620年代・1630年代というくくりで判断できると良い。


以上で終わり。史料問題がしっかりと日本史の知識を前提に史料を読みこまないと解けないような問題になっているのは流石です。これぞ歴史学の醍醐味といったところでしょうか。

次回は京都府立大学の世界史。

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