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今回は前回に引き続き、 平成の「こけし祭り」で活躍し始めた若手工人たちの中心的存在であった、 櫻井昭寛さんと高橋武俊さんのお話から、 次の世代へと引き継がれた「こけし祭り」への想いや これからの「こけし祭り」のことを書いていきたいと思います。 ※写真:全国こけし祭り第四十回開催記念誌より引用 【祭りの仕込みに苦労する工人さんたち。平成3年(第37回)。】 「こけし祭り」を始めたとき、そこには「まちおこし」の目的があったんだと思います。鳴子でこれだけ続けられ、しかも成功して
平成に入り、創始からおよそ半世紀が経った頃、 「こけし祭り」は次の若い世代が活躍し始めました。 その世代が、桜井こけし店の5代目の櫻井昭寛さんたちの、 今でも鳴子こけしや、「こけし祭り」を盛り上げてきた世代にあたります。 今回は、当時どのような新しい企画があったのか、 櫻井昭寛さんのお話を交えて、振り返りたいと思います。 ※写真:全国こけし祭り第四十回開催記念誌より引用 【絵付けコーナーで観光客に描彩を教える様子。平成3年(第37回)。】 平成の「こけし祭り」では、
前回に引き続き、思い出の写真の表情と共に、 他の人たちの記憶の中の等身大の名工たちを紹介していきたいと思います。 今回は、大沼健三郎さんと松田初見さんです。 ※写真:全国こけし祭り第四十回開催記念誌より引用 【こけし祭りにて。左が松田初見さん、右が大沼健三郎さん。】 櫻井家の先代の一人でもある、大沼健三郎さんは、 15歳の頃から父の甚三郎、兄の甚五郎について木地を習得しました。 以降、お盆などの大物挽に従事したり、木地業から離れることもありましたが、 昭和12年より復活
第四十回開催記念誌を読んでいると、 当時のお祭りの様子と共に、明治生まれの工人さんたちが映る写真が とても印象に残ります。 明治生まれの工人たちについて、 この本ではこのような説明が添えられていました。 明治生まれの工人たちは、こけしが子供の玩具から大人の鑑賞品となる過渡期を生きた人たちである。その前の世代と事なり、こけしへの作品意識を高めざるを得なく、その努力の結果としてたくさんの傑作を世に送り出した。そして明治人ならではの魅力で、たくさんの愛好家や研究家を魅了した。
1964年の東京オリンピック。 東京から遠く離れた鳴子にとっても、 この年は、とても熱く、こけしの未来にも関わる重要な年だったようです。 鳴子中学校のこけしクラブは、東京オリンピックの選手団にプレゼントとして、 10000本のこけしを贈りました。 こけし工人さんも手伝いをしたようで、 その年の「こけし祭り」は中止、鳴子のこけし工人さんたちによって 奉納式だけは執り行なわれたようです。 ※写真:全国こけし祭り第四十回開催記念誌より引用 【この年の奉納式での集合写真。昭和3
「こけし祭り」では、工夫を凝らした様々なこけしの展示や、 こけし工人さんたちによる実演が行われています。 工人さんたちがアイデアを出し、 時には会場レイアウトを中学校の美術の先生に協力していただいたことも あるそうです。 ※写真:全国こけし祭り第四十回開催記念誌より引用 【会場の鳴子小学校講堂の展示風景。】 展示担当だった、こけし工人の高橋正吾さんは、 当時のことをこのように語ります。 ありがたかったのは、深澤コレクションの展示のために、並べながら、一本一本手で触って
前回のお話に引き続き、 宮本たねさん、佐藤タケヨさんを中心に、 町の人々の「こけし祭り」への思いを、探っていきたいと思います。 その頃のお祭りっていうと、ひと月位前からウキウキしてね。祭りの日は店も休み。駅前から温泉神社の下まで出店もいっぱい並びました。うちの店の前にも毎年決まったおばさんが店を出して、もうなじみでしたよ。「こけし祭り」といったって、子供のみこしは出るし、組合が仮装に凝るし、こけし工人さんだけじゃなくて、町の人が張り切ったものだったんです。 (佐藤タケヨさん
今回から、何回かにわたり、 町の人々から見た「こけし祭り」について探っていきたいと思います。 特に、町の人々が盛り上がったのは、「こけし祭り」の仮装行列。 鳴子の美容師会会長、観光協会の副理事も努めたことのある、 宮本たねさんは、仮装行列にかける思いをこう話します。 「こけし祭り」の仮装行列では、毎年何をやろうかと頭をしぼりましたよ。 お祭りには何か目立つものがいるし、私はお祭りがとっても好きだったから、 色々工夫したんです。仮装行列は入賞を競うものだったんです。だから各
この第四十回開催記念誌を読めば読むほど、 「こけし祭り」を始めた頃の、工人さんたちや町の人々の勢いに驚かされます。 今回は、何度かこのマガジンの中にも登場している、 「こけし祭り」を中心となって盛り上げた人たちに 思いを馳せていきたいと思います。 --- 戦後、若い工人が高橋武男さん(こけし工人)のところに 自分の作品を持って集まって互いに批評し合う会があったんですよ。 第一回の「こけし祭り」で動いたのは、このメンバーでした。 第一回「こけし祭り」が実現できたのは、この
1回目のこけし祭りから5年ぶりに復活された、第2回こけし祭り。 どんなことをしていたのか見ていくと、 1回目にも負けず劣らずとても濃い内容です。 今回は、2回目がどのようなお祭りだったのか、見ていきたいと思います。 --- ○秀作こけし展示会 天江富弥所蔵のコレクション200点のほか、鳴子・東京・仙台のこけし会所蔵の逸品が、老舗高亀さんを会場に開催されました。 ※写真:全国こけし祭り第四十回開催記念誌より引用 【老舗高亀さんでの秀作こけし展示会の様子。後ろには東北の各
前回の画家の谷内さんに続き、 こけしに惹かれ、鳴子を愛してくり返し訪れた人たちを紹介したいと思います。 交流はこけし研究家にとどまらなかった。 こけしに惹かれ、鳴子を愛して繰り返し訪れた人の中には、 画家や作家、陶芸家、染色家、デザイナーも多い。 (全国こけし祭り第四十回開催記念誌より) 愛好家や研究家の他に、文化人と呼ばれる人たちをも惹きつける、 当時の鳴子温泉やこけしの魅力がどれほどのものだったのかが分かります。 また、谷内さんと同様に、 工人さんとの交流の中で、
記念すべき一回目のポスターを描いたのは、画家の谷内六郎さん。 谷内さんの絣の着物を着た女の人が山をバックに赤い笛を吹いているポスターは、 とても評判が良く、予備が全てなくなってしまうほどだったとか。 また、第一回こけし祭りの準備段階からかかわっていた、 鳴子ホテル会長高橋正夫さんの家にも、谷内さんから贈られた油絵があります。 鳴子と谷内さんにはどんな繋がりがあって、描くことになったのでしょう。 「町はこけしに華やいだ」の正夫さんと、妻の尚子さんのお話から、 その理由を探
今やこけし祭りには欠かせない「ハリボテこけし」。 「ハリボテこけし」が、夜の鳴子の町を練り歩くパレードは、 こけしが好きな人も、そうでない人も、見る人すべてを虜にします。 ※写真:全国こけし祭り第四十回開催記念誌より引用 その始まりは、「こけし祭り」第1回目の昭和23年から。 「こけし祭り」に欠かせなかったハリボテこけしは、ずっと手づくり。 ところが私たちが作るのは不恰好でやたら重くてかぶりにくいんですよ。 41年のことでしたか、こけしの現物から正確な比率をとり、
たくさんの研究家や愛好家、他の産地の工人さんたちが集まり、 毎年開かれている「こけし座談会」。 今回は、「町はこけしに華やいだ」の こけし工人の高橋武男さん、櫻井昭二さんのお話から、 当時の「こけし座談会」のことや、 そこに集まったこけしの研究家や愛好家について書きます。 ※写真:全国こけし祭り第四十回開催記念誌より引用 【こけし座談会の様子。こけし研究家の天江富弥さん(一番左)と工人さんたち。】 一回目は温泉神社の社務所で「こけし座談会」が開かれて、 確か「こけしとい