交流の思い出
記念すべき一回目のポスターを描いたのは、画家の谷内六郎さん。
谷内さんの絣の着物を着た女の人が山をバックに赤い笛を吹いているポスターは、
とても評判が良く、予備が全てなくなってしまうほどだったとか。
また、第一回こけし祭りの準備段階からかかわっていた、
鳴子ホテル会長高橋正夫さんの家にも、谷内さんから贈られた油絵があります。
鳴子と谷内さんにはどんな繋がりがあって、描くことになったのでしょう。
「町はこけしに華やいだ」の正夫さんと、妻の尚子さんのお話から、
その理由を探っていきたいと思います。
※写真:全国こけし祭り第四十回開催記念誌より引用
【谷内さんから贈られた油絵。こけしが日常的に存在している様子が
東北らしさを感じます。】
(こけし祭りとなると)たくさんのお客様が見えて、夜遅くまで話し込んでいたものです。…お泊まりになると、お代はいただかないでしょう。だから、絵を描いてくださったり、色紙を置いてくださったりしました。 (尚子さんのお話より)
こけし愛好家や研究家にとどまらず、
いろいろな人たちが集まったこけし祭り。
正夫さんは「こけし祭り」を、
「そういう方との年に一度の交流の場」と表現します。
夜な夜な繰り広げられる、こけしの話や、芸術論は、
どんな熱量で交わされていたのか、想像するだけでも胸が熱くなります。
※写真:全国こけし祭り第四十回開催記念誌より引用
【「ハリボテこけし」に手をかける谷内さん】
そうした方たちとの交流の思い出が、正夫さんの家にある油絵のように、
鳴子のさまざまな場所にひっそりと残されていて、
私たちに当時の「こけし祭り」がどういうものだったのかを
語りかけているかのようです。
( 文: 児玉紗也加 )