多摩動物公園
家内が排水溝に入れてしまい、取り出せなくて絶体絶命になっていた鍵を、奇跡的に取り出した私に、家内が、ご褒美をくれた。
多摩動物公園には、比較的近い地域に住んでいるのだが、家内も私も、いまだかつて、行ったことがなかった。
私は、動物園というと、猿山が好きである。あそこは、一日いても、決して飽きない。自分を鏡に写して見ているような感じがするからだろうか。
多摩動物公園は、今のご時世、土日は、人数制限のために、予約が必要になっている。家内は、鍵をとろうがとるまいが、土曜日に、私を連れていってくれるつもりだったようだ。
心の中の、リトルkojuroが、しんみりと、呟いた。
いい奥さん、もらったね。
ちょっと、きついけれど。
家内と、モノレールに乗って、行った。前日、モノレールに乗っていて。夕方、あまりにも夕空が綺麗だったので写真を撮ったという話を聞きつつ、行った。
手すりが映らない撮影方法は無いのかと家内に聞かれたので、レンズをガラスに接して撮れば、周囲の様子がガラスに反射したものは、映り込みにくいよと教えた。
多摩動物公園は、広い。午後から繰り出してきて。閉園が17時だから、満足いくまでは、見られない。それでも、家内と2人で、歩いて回った。家内は、歩くのは、苦手である。だが、最近、スマホに、ピクミンのアプリを入れていて。歩けば歩くほど、ピクミンが育つらしい。それで、少しでも歩こうと、珍しく、私に提案してきた。
心の中の、リトルkojuroが、頷きながら、呟いた。
うむ。いい傾向だ。
こういうソフトは、健康にもいいな。
コアラ館からはじまり、ひととおり、歩いて回った。
チンパンジーよりも人間が好きだという彼は、すぐに私の方に、寄ってきてくれた。
猿山の次に見たいと家内が言っていた、ライオンは、閉園間近で檻に帰ってしまい、このライオンしか、見られなかった。
最も印象に残ったのは、慰霊碑である。動物園を回っていると、いろいろな動物が、病気で亡くなっている。自然よりもストレスが少ない環境で天寿を全うする動物も多い中、天寿を全うできない動物も、かなりいることを、改めて知ることとなった。そういう、園の動物たちの、慰霊碑である。
家内と2人、手を合わせ、祈った。そして、ありがとうと、伝えた。
猿山は、閉園直前に、ようやく、立ち寄った。夕方、食事の時間が迫っていることも関係しているのか、山の周辺あちこちで同時多発的にいざこざが起こっていて。騒々しく、奇声が飛び交っていた。
それを見て、家内が、こう言った。
こんな騒々しい、揉め事ばかりの山。嫌だわ。リキをこんなところには、置いておけない。可愛そ過ぎる。
心の中の、リトルkojuroが、ボソリと、呟いた。
リキは、ハリネズミだし。我が家から出したりしないから、大丈夫だよ。
動物愛護の観点からも、動物園が、見直されようとしている。また、人間による違法な乱獲も頻発しているのも事実で。動物園の未来は、決して、明るくは、ないのかも知れない。
だが。
私は、久しぶりに動物園を訪れ、また、来ようと心に決めた。人はなぜ、生まれ、死んでいくのか。生きとし生けるものはなぜ、生まれてきて、死んでいくのか。
そういう自問にこそ、生きることの探求への、狭い入り口があるのだと、私は、思うからである。
動物園は、命の学びの宝庫である。だからこそ、また、必ず、来る。じっくりと、自問の旅に出るために。
最後に、家内も私も、僅かではあるが、寄付をしてから、門を出た。
メメント・モリ。
kaka.さんと、kaka.さんのコメント欄で、少し語り合った。そのことを思い出しながら、家内と2人、ゆっくりと、帰途についた。