RICO-君と生きた青春 12 初恋の思い出
翌土曜日。
二人の朝は遅かった。通常の週末に起床する午前十一時を時計で確認しても、ベッドを出る気になれなかった。その理由は、ハイテンションな大きな子どものお守りをした前日の疲労が、普段だらけているおっさんの身体では容易に解消されなかったせいなのだが、その他に、梨子がまだ懐の中で寝息を立てているのも大きく関与していた。
大学生時代、実家で飼っていた猫が惰眠を貪る僕の枕元で、いつまでも一緒に寝ていた記憶がよみがえる。今日はこのままベッドにいて、目を覚まさない君のもとで、猫のようにいつまでも眠り続けようと思い、まどろんだ。
眠っている時に、他人が身体に触れていると、その行為が夢に反映される場合がある。どちらが先かは分からなかった。勃起している男性器を梨子が口に含む夢を見て股間がにわかに騒がしい事態を察知し、目を開けた。
懐の中の君がいない。
「アサダチって性欲が有り余ってる少年だけかと思ってたけど、おじさんでもあるんだね」
君が下から顔を出し、目を丸くして言った。
「朝のいきなりの挨拶がそれ?」
「もう、朝じゃない、昼だよ。あっ、朝じゃないからヒルダチカ!」
そんなことはどうでもいい。
「梨子はもう体力回復したから、それでいきなり性欲全開なの?」
「違うよ、なんだかボクの股間辺りで固いモノが当たってるなあと思って、手で探ったら実クンのがボッキしてたんだよ。疲れててもエロは無敵なんだと思って、舐めてた」
君は平然と言ってのける。
「ほら、起きよう」
僕は布団を払い除け、僕を覆う君の身体も猫を持ち上げるように右によけた。
「実クン、発射しなくていいの?」
立ち上がる僕を名残惜しそうに見つめる。
「朝勃ちはいちいち射精(だ)さなくても納まるんだよ」
なんだ詰まらないと君は頬を膨らませた。
本当は衝動に駆られた。でも朝(正確には昼)から君に付き合ってたら、身体がもたない。疲れた肉体が更に悲鳴を上げると、涙を呑んで誘惑を断った。
二人は起き抜けにシャワーを浴びようと浴室に向かった。一人づつで素早くさっぱりしたいところだが、ベッドで機嫌を損ねたお詫びに一緒に入ろうと誘った。十分ほどで済む行為が、お互いの恥ずかしい部分を擦り合う、ソープランドごっこになったのは言うまでもない。一時間の作業で指先の皮膚が老人のようにふやけてしまった。
悪ふざけで火照った身体を冷やす為、インスタントのアイスコーヒーを作った。梨子は慣れた手付きでハムエッグを作ってくれた。あとはいつものロールパンでブランチは十分だった。
食後は二人でソファに身体を沈め、BSで始まっていたデーゲームの野球中継をダラダラと眺めた。坂元が大映しにされると、昨夜の興奮を思い起こし、余韻に浸ってはしゃいでいたが、臨場感の味わえないテレビ中継は梨子を酷く退屈にしたようで、しばらくするとソファを離れ、僕の寝室の書棚にある建築の専門雑誌を漁り始めた。写真というより建築関連の記事が多いその雑誌を五冊ほど小脇に抱え戻って来ると、君はキッチンテーブルで食い入るように眺め始めた。
「実クンてさあ、どうしてママのこと好きになったの?」
雑誌をパラパラめくる音を立てながら、僕を見ずに梨子が声を上げた。
君の会話はいつだって唐突で脈絡がない。
しかも端的には答えられない。難問だと思った。記憶も映像も風化している。視覚は野球を追っているが、頭は梨子の質問の答えを探していた。
「どうしてかな。もう何十年も前のことだからな。それまでは異性を好きになるっていう感情が分からなかった。まだチンチンに毛も生えてないガキだったからな」
「わあ、実クン、下品」
自分だって下品な言葉使うし、僕のモノをぞんざいに扱うくせに。
「う~ん、君のママに出会ったのは中学一年生の時、同じクラスになったから。髪は三つ編みで、肌の色がちょっと黒くて、それがまた健康的に見えて、梨子と同じでスラっと背が高くて、目が細くなる顔いっぱいの笑顔が可愛くて」
「もっとないのエロいこととかさあ」
君の好きは=(イコール)エロか?
「今思うと、小学生の頃にクラシック・バレエをしていたのを知ってた奴が、だったら開脚してみろよって煽ってたのを偶然見ていて、長くて綺麗な脚が前後に開いて、床にピタッとくっ付いたのを目撃して、させた張本人が『アソコ冷えちゃうよ』って冗談言ったら、照れながらママがそいつを叩いてたのを見て」
「勃起しちゃったの?」
「君のママは下着の上にブルマをはいてた。当時は紺のブルマが当たり前だった。今はアダルトビデオでしかお目にかかれないエロの象徴みたいになっちゃったけどね。伸びた脚とブルマ、君のママのその時の立ち振る舞いが綺麗で胸がドキドキした。その時ママに平気で『アソコ』とか言ってる奴も、イヤラシイ冗談を笑顔で受け流す君のママのこともなぜか羨ましく思った。ママのことを本当に好きだって気づいたのはクラスが変った二年生になってからだけど、多分一年生の時の衝撃が最初だと思う。小学生の時、僕が通っていた小学校は開校したてで、各学年二クラスづつしかなかった。ひとクラス四十人の半分は女子だけど、隣りのクラスと合わせても合計四十人。僕の中の世界で、異性は家族以外でその四十人が全てだった。中学に進学して当時のクラス数は八。単純に異性は一気に四倍の数に増えた。一つの地域の集合体が数か所の集合体に膨らんだだけで、僕の中の世界は一気に広がった。その中で見つけた君のママは過去にいないタイプで新鮮だった。初めて目にした魅力的な女の子だった」
僕は知らず知らずの内に捲し立てていた。
「君のママは器械体操部に入っていた。そこそこ歴史のある中学校なんだけど、当時はまだ体育館がなくて、本来室内でする運動部もグラウンドで練習していた。僕は背が低かったから『やると背が伸びるよ』とか誰かにそそのかされてバスケットボール部に入った。でもそれまでぜんぜん興味がなかったからルールもよく知らない。先輩との接し方とかも全然分からないし、練習もきつかったからすぐ挫折した。今思うとその時から野球は好きだったから、レギュラーとかベンチ入りとかは考えずに素直に野球部に入れば良かったと後悔している。そんな感じで、元々走るのも苦手だったから基礎練習から付いて行けないと感じて、運動部はそれっきり、やる気になれなかった。あ、そんなことはどうでもいいから話を戻すと、劣等感と落ちこぼれ感を抱きながら、放課後の教室からグラウンドで側宙をしたり、平均台の上で演技をしているママの姿をいつも眺めていた。バレエ仕込みの手足の優雅な動きが遠くからでも美しかった。それにママは生徒会の副会長を務めるようになって、リーダーシップも発揮していた。僕にはないものをたくさん持つ君のママは、『高嶺の花』。憧れはどんどん大きくなった」
「『どうしてママのこと』って聞いたのに、ママの話、止まらないネ」
君は呆れた顔をしたが、嬉しそうでもあった。
確かに止まらない。
「もう、やめようか?」
「ううん、もっと続けて」
「学校だけじゃなかった。家にいても、君のママのことが頭から離れなかった」
「華奈子でいいよ」
「その頃、僕の性に対する興味も並行して膨らんで行った。でもなぜか華奈子は性の対象にはならなかった」
「『性の対象』ってオナニーする時のオカズってことでしょ?実クンの言い方難しすぎるよ」
「そう、オカズにはならなかった。華奈子を想うと、切ない気持ちが膨らんだ」
「チンチンは膨らまないのにね」
「どうしようもなかった。どうしたらいいのかも分からなかった。無意識に自分の苗字に華奈子の名前を重ねたりしていた。それで僕は決心した」
「何を?」
「僕はある日、華奈子に打ち明けようと思った。でも直接じゃない。手紙を書こうと思った。その手紙も学校で直接渡せばいいのに、普通の郵便として家に届くようにした」
「実クンのやり方、すごく回りくどいね」
「そうなんだ。その当時の自分は華奈子のようにアピールするもの、自慢できるものが何もなかった。背は低いし、運動は苦手だし、頭の良さも中の上くらいだし、全てに自信がなかった」
「当たり前だよ、中学生で、チンチンに毛も生え揃わない男の子が特技なんてある訳ないじゃん。もっと違うものをアピールすれば良かったんじゃないの?優しさとか思いやりとかさあ。でも中学生で心の内面を前面に押し出すのは難しいか。それに、もしもそんなコトやられてたらボクもキモッ!て思うかもね」
「自分がふられた事実も間接的に伝えられた。その手紙が華奈子の両親の目に留まって、何の落ち度もない華奈子が『中学生の分際で』って諫められたらしい。一人っ子だったからなおさら厳しかったのかも知れない。ママの近所に住むクラスメートの女子が、もう何もしないでと華奈子からの伝言を僕に伝えた。間接的なアプローチだから本人を介さなくても文句は言えなかった。直接的じゃない時点で華奈子には呆れられたのかも知れない」
「結果としては当然だね。遠まわしの告白なんて何も刺さらないし、どれだけ好きかがぜんぜん伝わらないもんね」
「この事件がきっかけかどうかはは分からないけど、華奈子は三つ編みをやめてショートカットにした。今の梨子みたいにね。振られたけど、想いは変わらなかったからその姿の華奈子にもやっぱり恋をした。その後も二人の間には当然何もない。廊下で顔を合せても、仲のいい女子に会う目的の彼女を教室の中で見掛けても、言葉を交わすことはない。まれに事務的な用事で僕を呼んだとしても、それ以上の言葉も感情の動きも一切なかった。歪んだ形だけど、僕が華奈子を好きだという想いは伝わっている。だからそれだけで僕は満足していた。というか、それでいいと自分に言い聞かせていた。何もないけれど、僕の顔を見れば、僕が華奈子を好きだというデータは心の片隅に顔を出す。そう考えて僕は華奈子を遠くで見つめ続けた。時々気に掛けていると感じる瞬間もあった。苦手な校内マラソン大会の時、華奈子は僕に声援を送ってくれた。気のせいじゃない。確かに『冴木くんがんばれ』と声を掛けてくれた。事情を知っている誰かにそそのかされて、ふざけたのかも知れない。でも華奈子も自分を見つめる僕をどこかで意識していたって、今は良い方に思い出を修正している。中学生の時好きだったのはそんな梨子のママ、華奈子だけ」
「ふうん、実クン、けっこう一途なんだね。もしも今の感情を持ったまま中学時代に戻れるとしたら、またママにアタックする?それとも始めから諦める?」
「現実的じゃないけど、もしも戻れるのなら、今度は直接アタックしてみるよ。そしてまたふられたとしても、梨子の言うように優しさと思いやりをさりげなくかざして何度も再チャレンジしてみる。たとえその結果が同じでもきっと今抱えている思い出よりも胸を張って他人に語れる失敗談になるし、今が少し変わっているかもしれない。これじゃあ、『どうして』の答えになってないね」
「ううん、大丈夫、ママへの気持ちがよく分かったよ。それじゃあ、いい思い出にしようよ。ボクが手伝うからさ」
君は不可解な言葉を口にした。
「『ボクが手伝う』ってどういうことよ?」
「いいからいいから、その内分かるよ」