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村上春樹「1Q84」についての考察


「こうであったかもしれない世界」とは、「あの革命がもし成功していたら」という世界ではないか。オウム(Aum)を象徴するのは「さきがけ」ではなく青豆(Aomame)だ。大半の読者や評論家は「リーダー」の風貌の記述に引きずられている。

村上春樹は中沢新一のような失敗を避けるために、物語の要素をわざと混ぜ返したのではないか。しかし要素間の関係、つまり「構造」は明確に記している。注意深く読めば、村上春樹がジャスミン革命の指導書を著したジーン・シャープのような役割を果たそうとしているようにすら思える。

青豆は、その思考停止故に「老婦人」の偏狭な正義に利用されたのだ。もちろん殺人は重罪だ。現実世界ではタマル(!)がリーダー殺害に失敗した青豆(!)に対して死刑を執行したのではないか。

右を向いていた「エッソの虎」が左を向いたのは、すなわち体制の変化だ。これは「革命」の結果だ。1Q84において革命は遂行されたのだ。「さきがけ」が青豆を追うのは、体制を倒した社会が新しいリーダーを必要とするからだ。

しかし世界はそれほど単純ではない。満州の流れを汲む資本主義の象徴である老婦人の寿命はいずれ尽きる。しかし、ジャーナリズムの象徴たる牛河を殺したタマルの問題は解決されていない。

発端は、コミュニティにおいて「盲目の山羊」が死んでしまったことから始まった。中原中也が叫んだ「自恃」が死んだのだ。そんなコミュニティに生きることが耐えられず少女は、思想家・戎野のもとへと脱出した。

「ふかえり」とは何か。ロシア文学のようにも思えるし、春樹自身のようにも思える。では戎野とは何か。ドストエフスキーの盟友である思想家か、真の民主主義をめざす指導者か。

私たちは、村上春樹が仮構として示した物語から現実世界を理解し、この物語によって「ふかえり」との合一を追体験してなお、それに溺れずに愛する人を守る決意を持てれば、世界を自分の力で書き換えることが出来るのではないか。

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