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【#3】自己紹介_大学生活で学んだこと・後悔したこと

前回の自己紹介

高校を卒業した私は、県内の大学に通うようになった。はじめの1年は、高校の駅伝部顧問の知り合いで、他校の陸上部で顧問をしている先生の家に下宿をしていた。

大学でも、相変わらず長距離走を続けていた私は朝練7時から、夕練は20時までという生活を続けていた。下宿先から大学までは自転車で急いでも30分かかっていたから、それなりの時間をかけて通学してた。

当時から身なりにはまったくこだわりがなく、朝練が終わると、下宿先で作ってきたデッカいおにぎりを食し、ジャージのまま登校してた。1年生の4月からそんな感じだ。1年生のうちからジャージで登校しているやつはまわりにほとんどいなかったから、それなりに変なやつ?だったのかもしれない。

大学生活のはじめは、高校と違うしくみに戸惑った。さすがに、ホームルームなるものがあるなんて思ってはいなかったが、自分で受ける講義を履修登録しなきゃならないし、履修しても単位が認められるかは課題やテストの結果で決まってくる。小心者の私は単位が取れるか不安で、いつもいつも講義終わりの感想レポートなんかは時間いっぱいまでかかって書いていたし(早々と退出していく人たちはどんなこと書いているのか気になってた)、課題や小テストのことで普段から頭がいっぱいだった。確かに、単位の成績も重要だったのかもしれないが、もっと大学生のうちにやれることがあったのではないか?と後悔する。講義に自ら縛られ、少し誇張するとビクビクした大学生活を送っていた。

課外活動は、部活以外に理学部のサイエンスクラブに所属していた。文部科学省絡みでできた取り組みだという。1年生の頃から、いくつかの研究室をまわり、教授たちのもとで研究のまねごとみたいなことや、その成果をまとめたりする活動は高校ではしたことがなく、とても新鮮だった。
もっと新鮮だったのは、そこに集まったメンバーとの交流だった。朝から部活、日中は講義、それが終わったらそのまま部活でそのあと下宿先に帰るという、大学生としてはかなりストイックな部類に入る生活をしていたから、まあそんなに友人もいなかった。だから、普段の昼飯も大抵一人で食べてた(自分ではまったく平気だったので良いだろう)。人とほとんど関わらない生活をしていた私にとって、サイエンスクラブは普段とは色の異なるコミュニティで楽しかった。

ある1人の友人なんかは、大きな声でいきなり感情を表現し、自分の好きなこと(古生物とか映画とか本とか)だったらお金は惜しまなかったし、やけに上から目線で理科のことを話してくる。はじめ絶対に仲良くなれないと思った(が、結局大学生活で1番の友人になったことは言うまでもない)。私はただ漠然と理科が好きで入学したから、そんなマニアックな人たちはまるで異文化の人たちだった。高校での経験も違っていたし、大学生活の過ごし方も違っていた。サイエンスクラブというコミュニティに所属することで、先の友人みたいな人と時間が共有できたことは本当に良かった(教員になって高校でサイエンスクラブを立ち上げたのも、そんな心理がはたらいたからだろうか?)。

一方で、部活の方は思わしくなかった。高校では順調だった長距離走で、結果が出なくなってしまった。練習は欠かさずやっている。むしろ高校のときよりしていた。駅伝関係者からは「大学入って遊んでるんじゃないの?」と言われ、とても悔しかった。なぜ走れないのか、仮説と検証の繰り返しも虚しく(一度は調子を取り戻したこともあったが)、大学生活で良い結果を残すことはなかった。4年間でいろんな大会に出たし、長距離ブロック長をしたりと経験はいろいろあったが、早いうちに長距離走をやめても良かったのかな?とも思った。4年間やり通すことも重要なのかもしれないが、ダメだと思ったら早めに方向転換することもとても重要なことだと、あとから思った。2ヶ月という長い夏休みも部活の練習に制約を受け(ただ自分から何かしようとしてなかったからかもしれないが)、練習と練習の合間に図書館で時間を潰していたことは今でも後悔している(夏休みの楽しみは本をいくらでも読める時間ができたことだった)。部活で長距離に所属していた友人たちが2年生くらいで、陸上に見切りをつけ辞めて自分の好きなことをしているのはとても賢かったのかもしれない。結局、私はバカだったのか。

下宿は大学1年のときのみで、2年生から1人暮らしするようになった。当時は(も?)お金がなかったので、外食は友人に誘われたときのみで基本的に3食自分で作っていた。これまたストイックな性格がはたらき、夏、冷房は一切つけなかったし、冬も暖房ではなく毛布にくるまって生活してた。途中から、1人なのに照明をつけているのがもったいなくて、暗くなると勉強机用の蛍光灯だけをつけて過ごすようになった。おそらく、天性の才能でお金を使わなくても生活していける人なのだろう。お金はないが、お金がなくて困ったことは一度もなかった。その分、何かお金をかけて自分の経験を買うということもなかった。私にはどっちが良かったのか今でも分からないが、少しは後者のことがあっても良かったのかな?と思う。

大学生活も終盤で、4年生になると講義もなくなり、教員になるための教育実習と教員採用試験の勉強、あとは卒業研究を残すのみになった。
そもそもなぜ、その大学のその学部に入学したのかと言われると、ある教授がいたからだという答えが返ってくる。高校三年生の夏、当時の担任とその大学に行ったついでに研究室を訪問させてもらったのがきっかけだ。サイエンスクラブでも、その教授のもとで研究をしていた。だから、一年生のときからその研究室にはお世話になっており、普段から入り浸ってた。卒業研究もその教授のもとで!と思っていたが、なぜか急に気が変わり、同じ研究グループの別の准教授のもとで研究をするようになった(教授は少し残念だったみたいだ)。

いろいろ短縮して話すと、教育実習は楽しかったし、公立の教員採用試験は受かったし(結局辞退したが)、卒業研究も途中トラブルもあったが無事書き終えることができた。
公立の教員採用試験のときは、これまでにないくらい勉強した。1日10時間は勉強してたし、バイト中も暗記してた単語を思い出しては上の空になり、怒られもした。図書館や学生部屋で勉強できることの素晴らしさに気づいたのはこの頃だった。二次試験対策は、教育学部の人たちに混ざってディベートの練習もしたし、面接対策もした。だから、結果が出たときはまぁ嬉しかった。
ところが、初任者研修まで終えた後に、もう一つ受けていた母校である高校の試験結果が発表されたのだ。結果は合格。まぁ卒業生フィルタも入っていたのだろう。公立学校に行くか、私立学校に行くか、はっきり言って相当悩んだ。給料で言えば公立のほうが圧倒的にいい。職だって保証されている。公立に行ったほうがいいんじゃない?というまわりの声もあった。
でも、結局母校に帰ることを決意した。理由はいろいろだ。私立だったら好きなことがやれる環境にあるって聞いてたし、お世話になった駅伝部で指導もできるし、実家からも近いし。

そして、今もそこで働いている。

大学で学んだことは、必要以上に一つのことに固執しちゃダメだってこと。学ぶことって楽しいんだってこと。自分はお金を使えない人ってこと。

後悔したことは、もっといろんなところに出かけていろんなものを見たかったということ。友人をあと二倍くらいつくっておけば良かったということ(ちなみに結局今でも連絡を取っているのは2人)。
そして、自分のやりたいことは早めに見つけるってこと。

良くも悪くも私は模範的な児童・生徒・学生だった。学校を卒業して、また学校に入ると言う点でだ。まぁ全国の教員なんてそんなものだろう。
でも、それで本当に良いのか?そう思い始めたのが、つい最近、教員4年目くらいの出来事だ。

noteを始めたのも、それがきっかけ。
のらりくらりだが、いろいろ思ったことを素直に書いていきたい。
気が向いたら、教員生活のこれまでについても書きたいと思う。

つづく

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