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思考実験:34日目「悲しさ」を感じたとき、そこにある悲しみの感じに「はい。わかりました」と言う

自分が感じる「悲しみの感じ」に注意を向けると、いくらでもいくらでも流れてくる。何が流れてくるかというと、血が流れてくる。
私はしばしば自分を切りつけた。紙きり鋏は紙をスパッと切れるものでも、皮膚を切るには「スパッと」とはいかない。ぎり、ぎり、と何度も肌に刃をこすりつけてとうとう皮膚に浅く切れ目ができるが、何本もの蚯蚓腫れが並んで痒くなる。剃刀は切れすぎて怖い。皮膚に刃を近づける手が震える。震える手にぎゅっと力を込めて、じりじりと肌に刃をあてて、す、と切る。怖さのせいで全身に汗が噴き出して、刃を肌に直角に当てると、たいした出血にはならない。たいした出血になるほどに切るには、深く切る必要があるのだけども、例えば3ミリほどの深さに皮膚を切るなんて、なかなかに大変なのだ。私は本当に孤独で、孤独の真空状態の中にいるようなさながらで、悲しいと感じることができなかった。孤独のあまり、時報を聞いた。電話をかけるという動作の間、誰かの元へ私のかけた電話がつながるのだ、という期待をもつことができて、その期待欲しさに時報に電話をかけた。時報は陽気な雰囲気を感じる女性の声で、淡々と時間だけを告げる。これを思い出す時、たまらなく惨めな気持ちになる。何か有機的な質のものに触れたい一心で刃を肌の上にひく。血は赤くて塩の味がした。

惨めさ、とは、悲しみのスペクトラムの中にある。今のところ発見している私の悲しみのスペクトラムは、疲労、抑鬱、惨めさ。
私の命の響きの一部である、悲しみの中に多様なバイブレーションがあるのだ。

はい、わかりました。

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