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生きる、生きる、生きる

#Social Justice Retreat ...帰宅
2019年11月末に NVC Social Justice の、日本での合宿に参加してきた。
広島の山奥にあるYMCAでの7泊8日の合宿は、素敵な時間、素晴らしい学び、そして本当に疲れ果てた。

当時の私は「人と関わる」ということに本格的に挑戦している最中で、それには大きな代償があり、何かのバランスがとても危うくなっていた。
私は「自分に人との関わりに難しさがある」とは分かるが、それが上手く説明できない。トラブルを避けるために最初にそこをアナウンスするのだけど、なんだか毎回うまく機能しない。

「人との関わりに難しさがある」というフレーズが既にもう私の望むようには機能しなくて、恐らくは「人との関わりに難しさがある」というと「(シャイで)人に話しかけることが難しい」とか「(自分に自信がなくて)思ったことが口に出せない」ということが一般的な受け取り方なのだろうと思う。

色々な社会的な行動ができなくなってきて数年経つ。できなくなったことの一つに”病院に行けなくなった”というのがある。

病院に、いつからか”ボランティアさん”が駐在するようになってから、私には行くことができない場所になった。病院は「積極的な親切が必要な人と、積極的な親切が大きな苦痛になる人」が存在できるような多様性が含まれるような場所ではない。

場面緘黙症が出ることがあるとか、

恐怖や緊張が高すぎてパニックがおきそうな時に、愛想がよく大きな声で口数も多くなるとか、

そういう事情を説明するような時間も必要もなく、私もそんなことをしたい訳ではないのだけど、合宿という閉じられた環境の中で、時折自分にできないことを相手に伝える術がなく、そんな時には「精神障害があるので」と言うことにしている。

私の状態としては、初期の認知症によく似ていると思う。状態の良い時と悪い時とがあり、状態の悪い時にはふと時間空間の認知が混乱する。混乱している時には何がどう分からないのかが分からないけれど「今自分には分からない」ということだけは分かるので、不安なまま周りの流れに合わせるというよりは流されるより他術がない。この「流されている時」に人と関わりができてしまうと、自分の望まない自分と誰かとの関係が出来ていたりして、ややこしいことになる。

普段の生活では極力人に会わないように気を付けていて、いわゆる「ひきこもり」なのだけど、選択してそれをしているというよりも、さまざまな消去の結果残ったところがここ。

それでもやはり、人の中で生きていくことができたらと願う。

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