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中尾ハジメ編 『原子力の腹の中で』より、原発を不全技術とする理由。

東日本大震災という災難に見舞われた2011年に刊行された一冊。本書は、かつてスリーマイル島への取材経験をもつ環境社会評論家・中尾ハジメ(1945-)をメインに、原子力問題に関心のある研究者・ジャーナリストらが集い語り尽くした(座談形式)内容となっている。

爆発した東京電力福島第一原発の2011年3月14日の衛星写真。

この記事を書いている時点で、既に震災・原発事故から10年以上が経っているが、本書の議論をたどることで、3.11直後の混乱を、再体験するような感覚にさせてくれる。事故以降の政府・メディアが何を発信し、それに対する人々の反応などが語られている。

科学者の無責任体質
未曾有の事故を前に、二転三転した安全基準。危機を前に、原発関連の科学者の無責任体質が顕となった。科学(特に理系分野で)の客観性とは一体何なのだろうかと考えさせられる。科学者としての「矜持」はどこへいったのか?政治の場にいるのが科学者なのだろうか。本当は、科学者たち本人も全てを理解できていない、原子力発電所を動かすということは、それくらい大きな科学技術の集合体を管理し続ける困難を伴うものなのだろう。一度事故が起きれば、科学者はそれぞれにテキトーなことを言い、責任から逃れようとするものなのだろう。

原発を不全技術と呼ぶ三つの理由
本書内の議論で、個人的に特に印象に残った話がある。それは、科学史家の山田慶兒(1932-)の「原発を不全技術と呼ぶ三つの理由」だ。そこでは、①原子炉そのものにかかわる問題 ②廃棄物・廃炉の処理の問題 ③原発が「失敗が許されない技術」であるという、技術の本質にかかわる問題 が挙げられている。山田の指摘は重要だと思うので、以下に大意を引用するかたちで具体的にまとめておきたい。

原発を不全技術とする理由

①原子炉そのものにかかわる問題
炉内で発生する放射性物質を完全に外に漏れないのうにするのは不可能。小さな事故や故障でも、一時的にしろ、多量の放射性物質が漏れる。

そもそも・・である。
平時でも、漏れているのである。
それらに実際に対峙するのは、電力会社の幹部などでは決してなく、原発労働者と言われる生身の人間なのだ。彼らの犠牲なくして、原発を動かし続けることは不可能であり、事故が起これば一番に犠牲になるのも彼らである。
(原発労働者の悲惨な労働環境については、ハッピー 2013 『福島第一原発収束作業日記』(河出書房)、寺尾紗穂 2015『原発労働者』(講談社現代新書)なども参照されたい。)

②廃棄物・廃炉の処理の問題
使用済みの核燃料をどう処理するか、半減期の長い廃棄物を最終的にどう処分するか、老朽化した発電所をどう解体・処分するか、技術も見通しもないままに始まった原発、その状況は今でも変わらず。

青森県六ヶ所村でのウラン再処理工場も、トラブル続きでまともに操業できていない。それなのに、六ヶ所村には、核燃料サイクルの中核施設としての役割を押し付けが行われている。このままなし崩し的に、最終処分場にされてしまうのではないか。
(六ヶ所村の現状については、舩橋晴俊、長谷川公一、飯島伸子 2012年 『核燃料サイクル施設の社会学』(有斐閣)を参照されたい。)

フィンランドの放射性廃棄物最終処分場「オンカロ」=Sam Kingsley / AFP / Getty Images

この地震大国の日本で、深い地層とはいえ何万年もの期間、安全に廃棄物を管理できるのだろうか。人類の歴史は2,000年程度。ドイツの社会学者U.ベック(1944-2015)も上記の点について、そもそも何万年もの先の人々に、それらが「危険」だということを伝えて続けていく方法があるのだろうかという点を指摘していたように思う。

③原発が「失敗が許されない技術」であるという、技術の本質にかかわる問題
技術の歴史は失敗の歴史。失敗は技術の本質だ。
しかしながら、原発は「失敗が許されない技術」だということ。事故を起こせば、ただちに人体に致命的な被害をあたえる。

「失敗が許されない技術」は、技術の本質を無視している。事故は許されぬ、という至上命題の為に、不確実性を「安全神話」で塗装する。

山田のこれらの指摘に応答できる科学者はいるのだろうか。

考え続けることに意味はあるか
私は原発問題に関心があるが、科学技術に関しては全くの素人、というよりも何も分かっていない人間だ。ただ、この問題への関心だけはずっと持ち続けている。特に、原子力(核)のもつ巨大なエネルギーが人間の扱えるレベルを完全に超えているのではないかという不安がそこにある。

原発事故から10年以上が経ち、地球温暖化問題やロシアのウクライナへの侵攻などの影響もあってか、原子力エネルギーの活用への流れがにわかに強まりつつある。あれだけの犠牲者を出したにも関わらずだ。

当時の私は、原子力よりも再生可能エネルギーに注力すれば良いではないか!と思っていた。もちろん、現在でもその方向性自体には変わりはない。ただしかし、純粋にそれらに期待することも危険であることは理解している。例えば、極端な原発からの脱却を進めたドイツが、国民の電気代の高騰を招いていること、実はフランスの原発からエネルギーを買っているということ、ドイツのエネルギーシフト(天然ガスのロシア依存)が、ロシアのウクライナへの侵略を招く遠因になってしまったことなど。

山林を切り開いて建設されたメガソーラー

そして、国内に目を向けても、自然を破壊するメガソーラー発電所の建設。その裏に暗躍するエコを謳う怪しいコンサルタント会社、ソーラーパネルや電気自動車のバッテリーの大量廃棄の問題など。原子力がダメなら別のものにすれば良いというような簡単な問題でもない。科学技術のもつ利点の裏にある負の側面にも視点を当てながら、考え続けていきたい。

本書は、文系の(ある意味で「非」)専門家が集い、原子力問題に対して、自らができることは何だろうかという議論をまとめた「非・専門知識(Counter-Expertise)」の実践の一冊である。


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