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【コラム】パスカルズ、「多幸感」の正体を探す(っていうかまず「多幸感」って何だっけ?)

パスカルズの音楽は多幸感があり、聞いていると“ゆるされている”ような、“音楽に抱かれている”ような感覚になる。
その音楽は子どもの落書きや美しい風景にもたとえられ、おもちゃやリコーダー、鍵盤ハーモニカなどを使ったサウンドを語るときには「癒し」「牧歌的」「可愛い」「懐かしい」などのワードがよく用いられる。

……しかし逆張り大好きオタクである私は、「パスカルズの音楽には多幸感がある」という言葉に疑問符を抱いている。

いやその、「多幸感を感じる人はおかしい!」とか言いたいわけじゃないのだ。というかむしろ音源を聴くたび「なんて幸せに満ちた音楽なのだろう!」と走り回り、すれ違う人すべてにパスカルズのアルバムを押し付けたくなるド級の厄介オタクである。どこかに閉じ込めておいたほうがいい。

ちなみにこの記事も依頼でもなんでもなく自主的に(勝手に)書いている。媒体勤め時代からこんな感じだったので、ある日突然バンドに向けて「パスカルズのコラムをウチのサイトに載せていいですか?!原稿はもうできてます!!ご確認くださいますと幸いです!!」というメールを送ったこともある。つくづく厄介オタクである。

話は逸れたが、自分は「パスカルズの音楽には多幸感がある」という言葉に若干、疑問符を抱いている。
パスカルズの音楽を聴いたとき、どうしてリスナーは「幸せだなあ」と思うのだろう。どうしてあのサウンドに幸福を呼び起されるのだろう。彼らの音楽はなぜ多幸感に満ち溢れているのだろう。
それらをしっかり言葉にしない限り、この「多幸感」というワードは濫用されている「エモい」「チルい」のように、特別さを失ってしまうと思うのだ。

……っていうかそもそも“多幸感”ってどういう意味だっけ。調べてみると、英語では「ユーフォリア」というらしい。
で、この“多幸感”という単語、簡単に言えば「すっごく幸せな気持ち」を表す。そのままじゃん。生理学的にはドーパミンの放出量が増えている状態とかなんとか。
表現としては愛情による幸福感とか性的絶頂、さらに薬物によるトリップ状態を表すときなどにも用いられるようで、つまり映画『ミッドサマー』は多幸感に満ち溢れた映画ということになる。

興味深いのは、“多幸感”に「音楽を聴いた時に感じる至福感や陶酔感」という用法がある所だ。つまり、人が多幸感を得られるのは「パスカルズの音楽を聴いたとき」に限った話ではなく、「好きな音楽を聴いたとき」なのである。

はてさて、これは困った。私は「パスカルズの音楽にはなぜ多幸感があるのか」を考えていたのに、「パスカルズの音楽に限らず、人は音楽を聴くと多幸感を得られる」という要らん知識を得てしまった。

考えてもみれば、好きな音楽を聴けば幸福な気持ちになるのは当たり前のこと。一般には理解されにくいジャンルだって、好きな人にはこれ以上なく多幸感あふれる音楽なのだ。人が音楽を聴く理由、それは喜び=多幸感に直結しているから。わざわざ苦痛を得るために音楽を聴いている者など、悩める音大生と評論家くらいのものだろう。

それでもやっぱり、パスカルズの音楽は“多幸感がある音楽”だと思う。けれど最初に彼らのライブに行ったとき、私が浴びたのは嵐のような音圧と本能的な歓喜、そして極色彩に彩られた狂気だった。

パスカルズの音楽には、いくつかの「作り方」がある。最もスタンダードなものは3~4フレーズの短いメロディを様々な楽器で繰り返す手法だろう。多くのインストバンドのように、ひとつの楽器が楽曲内で終始ヴォーカル的に振舞うことはほとんどない。

一見するとこれはシンプルで素朴な創作技法に思えるが、反復は“狂気”を孕む。「狂気とは、即ち同じことを繰り返し行い、違う結果を期待すること」なんて小難しい言葉もあるけれど、ホラー映画とかで秘密の小部屋を開けてみたら「助けて助けて助けて助けて……」的な言葉が壁いっぱいに書かれてるシーンをイメージすれば“反復=狂気”の図式がわかりやすいだろう。

クラシック音楽で反復といえばM.ラヴェルのバレエ曲「ボレロ」だ。2つのメロディを様々な楽器が奏で繋いでいく様は偏執的であり、異様な緊張感と酩酊をもたらす。
そのほか、ヘヴィメタルの始祖と呼ばれるブラック・サバスなどはとにかく反復が多い。彼らのデビュー曲「黒い安息日」は執拗すぎる不気味なリフの繰り返しで多くの人々の恐怖を誘ったとか。彼らに影響されてなのか、メタルは反復が多めの音楽になっている。

そして反復は、音楽が芸術たる最も原始的な要因でもある。赤ちゃんや動物が適当にドコドコ太鼓を叩いているのは「音楽」ではないが、それが拍子に沿って反復しはじめれば、人は「音楽=芸術」と認識する。
太古の音楽も多分、そんな感じでできていた。繰り返されるドラムのリズム=反復にあわせて歌い踊り、なんか気持ちよくなること。これこそが「音楽といえる音楽」の始まりだ。

反復は芸術が芸術たる要因といって過言ではない。そのへんで買った消しゴムをひとつ立てただけでは芸術ではないけれど、それを順序正しく並べて作品名をつければ芸術っぽい。アンディ・ウォーホルのシルクスクリーン(版画)作品なんて、まさにその「っぽさ」を意図的に作り上げたものだろう。
つまり我ら人間は、ある思想や順序のもとに反復されたり、並べられているものに「芸術性」を見出し、快楽を感じる傾向があるらしい。

パスカルズが生み出す音楽もまた、反復の音楽だ。多人数を活かした「LA LA LA」や「Pneuma」など、同じフレーズを繰り返しながらだんだん激しくなっていく構成の楽曲は彼らの十八番。「花火」にも近いところがあるし、捉えようによっては「のはら」なんかもそうだろう。
「マボロシ」もよく聞くと1フレーズしかないんだけど、その1フレーズが小節線を大きく跨り予測不能な揺れ動き方をするので、メロディの展開がミニマルであることを感じさせない。

その中で1曲選ぶなら、やっぱり「かもめ」が挙げられる。この曲で使われるのはたった3つのフレーズ。それを様々な楽器が反復し、最後にはひたすら同じメロディを繰り返すようになる。切なく空虚だったメロディは次第に濃厚な狂気を孕み、冷徹な空気を纏いながらも調和と崩壊の狭間で揺れ動きながら壮絶な幕引きへと向かい、聞く者すべてを混沌の渦に巻き込んでいく。

反復にはやはり狂気が含まれている、と私は思う。「かもめ」の執拗な反復は、どんなに激しくなってもメロディの輪郭だけは壊れないからこそ狂気じみていて、まるで死に向かいながらも羽ばたくのをやめない海鳥のようだ。「LA LA LA」の反復は、それこそ廃屋に放置された古いノートを開いてみたら全ページ同じ単語で埋め尽くされていた……みたいなものがあるのに対し、「かもめ」は最後の瞬間まで正気を失わない。

「花火」も「かもめ」に似て、後半で1フレーズを執拗に反復する曲だ。しかしこちらは熱狂を抑えた構成により“ただひとつのことを永遠に祈り続ける”といった様相。「狂気とは、即ち同じことを繰り返し行い、違う結果を期待すること」と定義するならば、すべての祈りもまたひとつの狂気の形なのかもしれないが、私は祈りを狂気と思いたくはない。

一般的に「狂気に陥った状態」といえば“行動や言動が支離滅裂なこと”を指す。しかし音楽に関しては“どんなに激しくなっても決して崩壊しない”ほうがむしろ狂気的に感じられる、ような気がする。楽器をかき鳴らして音楽をぐちゃぐちゃに崩壊させるのはそんなに難しくないけれど、崩壊の一歩手前で踏みとどまるのは高度な技術だ。ホラー映画や恐怖漫画もジャンプスケアや流血描写ばかりに頼っちゃいけない。

で、ひょっとしてこれらのことは芸術の本質に近いものなんじゃなかろうか。
芸術を追求するひとは、どこかで何かの狂気に触れる。数千枚ものデッサン、モチーフに対する執着、何万時間もの練習、何十万文字も積み重ねては消していった文章。成功に結び付くかもわからぬまま鍛錬を積み重ねた先に、答えは見つからないかもしれない。芸術に触れていない人にとって、芸術とは奇妙で非生産的な行為に見えるだろう。

しかし、そうやって作品として完成された“壊れかけの美”には途方もないものがある。それはいわば「飾り付けられた原始的な狂気」。だからこそ幼い私は、崩れそうになりながらも均衡を保ち、原始的な反復を続けるパスカルズの音楽に“本能的な歓び”と“狂気”を感じたのかもしれない。

そしてパスカルズは、サウンドのバランスも独特だ。全ての楽器が主役級を張っていて、この楽器はベース、この楽器はハーモニー、この楽器はメロディといった役割分担をあまり感じず、しかもだいたい全部均等に音がデカい。若者言葉で言えば「情報量が多い」ってやつだ。音がいっぱい、なんて可愛い言葉ではなく、全ての楽器の音、全てのメロディが束になって頭の中に入り込んでくる。

チューニングも厳密に合わせていない、というかズレている。演奏解釈(このメロディをどういうフレーズ感や強弱で演奏するか、という解釈のこと)も要所要所を除いては自由奔放だ。これは楽曲のために自分の個性を押し込めるクラシックの管弦楽団とまるで正反対。楽譜に従いつつも“自分”は抑えない、って感じで、結果として彼らの演奏では「全ての楽器の音、全てのメロディ」と同時に「メンバー全員の個性」が放出されている。

こりゃあとんでもない情報量だ。通常のオーケストラ楽団ならばせいぜい作曲家・楽団・指揮者ごとの個性が語られるけれど、パスカルズでは十数名の個性が横並びにそれぞれのダンスを自らのやり方で踊り合っている。バランサーですらパスカルズの中では個性派。本来は飛び道具的な存在であるはずの石川浩司のパーカッションが全体をまとめているように感じることもよくある。

だが、パスカルズのサウンドは奔放なようでいてとても脆い。全員の個性がぶつかりあっているからこそ、ひとりいなくなるだけでも音の質が変わる。サポートメンバーの違いで楽曲の雰囲気まで変わってしまうのはなかなかだ。
この特徴は三木黄太の逝去後により強く感じるようになった。たったコンマ数秒の持続音の違いや音質の違いで曲に描かれる詩情と風景が変わる。だからこそ「誰かがいない」ことが際立ち、それでも音楽が進んでいくことに哀しみが生まれる。私のようないちリスナーでもそう感じるのだから、演奏しているメンバーが体感する「不在の在」はもっと大きいだろう。

誰が欠けても違うし、誰が増えても違う。違うのに、音楽は美しくなり続ける。癒し系アコースティックサウンド、ほっこりサウンド、なんてとんでもない。ただ楽譜通りに奏でただけでは不完全な音楽の空白が、“あのメンバー”の個性によって埋められている。他の誰が集まっても、どんなに技巧に優れた楽団が演奏しても、あの楽譜はあの音楽にならないのだ。

パスカルズのサウンドは十数個もの「今ここで演奏している私の人生」と「私の信じた音楽」が奇跡的なバランスで噛み合い、大いなる旋律のもとで緻密に絡み合った絵画だ。その壊れやすい音楽が、風船遊びでもしているみたいな可笑しさでポンポン打ち上げられていく。ひとつも欠けることが許されない音楽が、音を重ね合う歓びに満ちて。
それは遠くから見れば画題を柔らかいタッチでとらえたものに感じられるし、近くで見れば細部までが描き込まれた極色彩の細密画に感じられる。

それらすべてにパスカルズの多幸感の正体がある。狂気を孕み原始的な歓喜を持つ反復と、踊るように鳴り続ける楽器の響き、時にメンバーの人数を超える個性の爆発。莫大な情報量の流入に、直感的な「やばい!すごい!きれい!」という感動と、学術的な「これはなんだろう?!」と好奇心が同時に押し寄せ、思考回路がパンクして茫然と立ち尽くす感じ。それはまさしく多好感、感情的なオーガズムだ。

パスカルズのライブに足を運び、演奏者の息遣いと音の振動を肌に感じる距離であのサウンドを浴びることは、「なぜ人は音楽を聴くと多好感を得られるのか」の答え合わせである。それと同じく、彼らの作るステージは自分の中にある音楽への先入観と向き合って、新しい“何か”に出会う場だ。何に出会えるのかは、聴く人によって違うほうがいい。音楽ってそういうものだと思うから。

迫る5月末の京都・滋賀ツアーは、京都がライブハウス、滋賀がホールでの公演となる。サウンドの印象が異なる2会場、どちらもバンドにとっては特別な場所とのことだ。
私自身は京都2公演のチケットを取っている。「磔磔の音は凄い」と噂される、音楽好きとして一度は行ってみたかった歴史ある憧れのライブハウス。どんなセットリストが展開されるのか、やはり新譜からの楽曲が多いのか、それとも定番曲を中心に披露されるのか。

もし初めてパスカルズのライブに行く人がいるならば、あの“音”が質感を伴って迫ってくるようなサウンドに圧倒される多幸感を存分に味わってほしい。

文:安藤さやか

■<Pascals Big Pink Tour 2024 「こりすちゃんでぉ〜るの旅」>
【京都公演】
2024年5月23日(木)、24(金)京都・磔磔(2days)
【出演】パスカルズ(ゲスト:関島岳郎)
【会場】京都・磔磔 http://www.geisya.or.jp/~takutaku/
【時間】開場18:00/開演19:00
【滋賀公演】
2024年5月25日(土)滋賀・滋賀県立陶芸の森「信楽ホール」
【出演】パスカルズ(ゲスト:関島岳郎)
【会場】滋賀県立陶芸の森「信楽ホール」
【時間】開場13:15/開演13:45(野外ミニマルシェ10:00〜13:00)
詳細はオフィシャルサイトまで
http://www.pascals.jp/


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