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摂食障がいの克服128【眠れない夜:体操・新体操】

 お疲れ様です。
 雑談です。

 現在、体操界のレジェンド、チュソビチナ選手の動画を観ています。眠れない夜、ではなくいつみてもサイコーです。

 先日、1992年体操女王のタチアナグツーについて書かせて頂いたのですが、チュソビチナも、1992年EUN(旧ソ連)代表で出場した際に、規定演技、段違い平行棒で落下があったのですね。

 (当時は規定演技と自由演技の合計、4種目×2の合計点が個人の予選得点でした。チーム戦は、規定演技・自由演技すべての競技において、6人中上位5人の合計得点で争われる。つまり、落下はひとりまでならチーム戦に影響はない。)

 タチアナグツーは平均台で落下があった。EUN内ではノーミスのガリエバが、3位。全世界で36位以内且つ、チームで3位以内が個人決勝に出場できる条件でした。グツーは金にもっとも近かったので、国やコーチ(恐らくは)の判断で、ガリエバは怪我をしたとしてグツーが出場。

 ちなみに、EUNのトップ2は、ボギンスカヤとリセンコでした。
 ボギンスカヤは、グツー自身が、『体操界の宝』と表現されました。1988年ソウルオリンピック個人銅メダル。翌年1989年は個人金。表現力が本当に素敵なんです。ボギンスカヤは幼少のころはフィギュアスケートから始められたベラルーシの方。その後、自分には体操だと体操界で頂点を目指されます。1989年に個人女王となり、次の世界選手権1991年は2位。1992年には女王奪回を目指しますが、わずかの差で5位。あの時の、あの最終演技の後の表情。しかし、周りの選手とハグをかわし、気品に満ちたあの姿。
 今思っても女王すぎる、女王だった。

 ボギンスカヤは、その後アメリカに渡るんです。

 ナディア・コマネチという体操界のレジェンドがいて、1976年、体操界で初の10点満点を連発します。完璧な演技。それまで東京五輪のチャフラフスカさんのように、優雅な演技が主流だった体操界に、技の素晴らしさをもたらした、体操界の妖精です。

 体操界のスコアボードは、当時3ケタでした。9.95とか。私が演技すると、0.01あるかないかの世界です。(マイナス10点満点かも。)しかしコマネチの完璧な演技、モントリオールオリンピックで、『1.00』の表示。初の10点満点でした。
 なぜ、コマネチの話?ですが、この素晴らしい選手のコーチが、ベラ・カロリーコーチでした。1991年の女王ズメスカルのコーチもこの方。ルーマニアご出身でアメリカに渡られました。
 ボギンスカヤは女王のころ、女王でいて当然だった。笑顔といっても、女王の笑顔だった(と私は感じた)

 その後アメリカに渡られ、カロリーコーチの元、アトランタにも出場された。女王を目指してではない。体操が好きだから。

 書きたい対象がありすぎますが、以下:
 *ナディアコマネチ:1976モントリオール五輪女王。ルーマニア出身 
 *ベラ・カロリー:コマネチ、またのちにメアリー・ルー・レットン(1984年ロサンゼルス五輪女王)、キム・ズメスカル(1991年インディアナポリス世界選手権女王)を育てる
 *スベトラーナ・ボギンスカヤ:体操界の女王。1989年女王。1992年も女王争いをしましたが、5位。けれどその後アメリカに渡られ、ショーなどでも活躍。今もコーチをされ、同じチームメイトのチュソビチナのコーチもされています。
 *オクサナ・チュソビチナ:1992年EUNナショナルチームメンバー。ウズベキスタン出身。一旦引退されますが、お子さんが難病指定となり、もしもアジアで金ならば、援助を受けられる・・・その条件のもと、アジア金メダルをかけて復帰。跳馬で金。その後東京五輪までご活躍され、且つ今も現役でいらっしゃるそうです。1992年も床では種目別に出場。

 種目別に出場するということは、世界の8位に以内に予選で入るということ。当時の規定演技・自由演技の合算で、世界の8位。チュソビチナの技に負ける選手はいなかった。と私はおもう・・その後跳馬のチュソビチナ、となりますが・・・

 ・・・1992年に戻ると、その予選で、ガリエバが3位だった。グツーは個人の出場権がない。恐らくですが、全世界の36位どころではない10位以内にはいたのでは。それでもガリエバに一歩足りなかった。
 旧ソビエトは、ボギンスカヤに代わりグツーを、とも考えたそう。けれども、『ボギンスカヤは有名すぎた』そう。体操界の宝ですしね。
 またリセンコも当時の跳馬で唯一ロンダートからの2回ひねりをされていた選手ではないかと思います。1回ひねりでも2回ひねりでも、満点が10点だった。すると、少しでもミスというか姿勢欠点があったり着地が動くとマイナス材料になるので、アンフェアながら、10点に近くとも、満点が出なかった選手。

 国の色々があり、それでもthe great gymnast。
 ボギンスカヤ、グツー、ガリエバ、チュソビチナ、リセンコ。
 あの時代って、この時代も支えてる。
 

 私は摂食障がいですので、まだまだこの瞬間過食に悩んでいたりもしますが・・

 ひとつもしよろしければ・・・

 グツーやボギンスカヤというEUNの選手が旧ソビエト連邦をひとつの国として、ナショナルチームをたった6人、あの広大な地域で選び抜かれた6人で闘われたその時代も過酷なものであり。

 そして、体操界では6人でしたが、新体操界では、2人だった。
 EUNでたった2人。どの国でもふたり。そうなったとき、過酷な争いです。EUN:つまり旧ソビエトで、もしも3位、4位、・・・上位であれば世界のトップです。けれど二人までしかオリンピックに出られなかった。

 ティモシェンコとスカルディーナという素晴らしい選手がメダルを獲得。EUNのたったふたり。

 そして、旧ソビエトが崩壊。
 当時のティモシェンコとスカルディーナに次ぐ、3番目の選手が、コスティナだった。もう美少女で、身長は新体操選手にしては小さいけれど、魅力しかない。

 1992年、あの広大な地域でたったふたりしかオリンピックに出られない。コスティナは第3位。オリンピックに出られない。

 その年の世界選手権(私の記憶では恐らくティモシェンコもスカルディーナも引退したのではと思いますが:ガリエバ同様、ここでは終われない)コスティナは世界選手権出場、女王となり、また種目別全種目制覇。こんなことあるかと感動しました。

 オリンピックに出る条件がその国の2位以内、なのに、世界の3位だった(おそらく)コスティナ。

 やっと女王になったコスティナ。

 なのに、その数か月後、亡くなりました。
 交通事故でした。フィアンセの運転する車で。当時まだ、20だった。
 

 まだまだ摂食障がいも尾を引くし、眠れないし、苦しい。
 けれど、私はやっぱり、生きないとって思っています。

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