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長生きは優しさかもしれない

9/3の朝 祖父が亡くなった。102歳だった。
両親からそのことを知らされたのはその日の20時過ぎだった。珍しく前職の先輩と居酒屋にいた時だった。

今朝の訃報を今頃してくる辺りきっと、僕が葬儀に来ることを期待してないんだろうと思った。
確かにコロナ禍で何年も会ってなかったし、僕の顔を見ても誰だか思い出せなくなっていた祖父の死の受け止めは、想像通り淡々としたものだった。
でも同時にこうも思った。頑張って長生きした人が、生きながら忘れられたような存在になるのは嫌だなと。
だから絶対お別れに行きたいと。

九州からさらに乗り継いだ離島にある実家へはスムーズにいっても半日はかかる。結局着いたのは翌々日の葬儀の朝だった。

志半ばで亡くなる人は残酷だと思う。多くの人を一緒に悲しみの淵に突き落とそうとする。
でも祖父のように長生きの人は優しい。心の準備をする時間をくれるから。
もちろん、長生きできたからと言って心残りがないなんてことは無いと思う。少しずつできることが減っていって無念だっただろうし、顔や名前が思い出せなくてだんだんと人に会いたがらなくなっていた。
でも、ある一定を超えてからは「じいちゃんはもう、ようわからんようなってしもうてなー」と笑うようになった。
笑顔だけは元気なころと一緒だった。
そのころから祖父を見てもあまりかわいそうとは思わなくなった。

棺の中にきれいに整えられた祖父はなんだか記憶と違っていた。
最後の対面をして、2時間後にはそのままの姿勢で骨になっていた。
外側の存在が無くなるってこういう事なのか・・・この「いなくなった」感覚は初めて感じたものだった。
さっきまでそこにいた人が、もうどこを探してもいない。
外側をなくした祖父が、ようやく自分の記憶の中の祖父の姿をまとって目の前に現れた気がした。
その時、初めて少し泣いた。お葬式で泣いたのは人生で初めてだった。

それぞれがその人らしく、より長く生きることが、その人にも残される人にも優しさなんじゃないかなと思う。
そのあいだに少しでも心残りを減らして、気持ちの区切りで小さなお別れを何度もして・・・。
祖父とのお別れを通して老いや死についての考え方が少し変わったと思う。

神妙な顔でお骨を拾っていた父はがん患者で、それを見ている僕が何年か後に神妙な顔で父の骨を拾うのだろう。
僕がそう思ったことが顔に書いてあったのか、「俺はまあ、まだ大丈夫だから」と父は聞かれもしないのに言っていた。
「そうだね。元気そうだし。」咄嗟に返事した。
その父の姿や、やりとりも小さなお別れのエピソードの一つになった。


カバー写真は
UnsplashJohannes Plenioが撮影した写真です。

O-DAN(オーダン)