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「街の上で」~コミュニケーションのほつれ~

映画「街の上で」
「それ取ってください」と誰かに頼んでみたら取って欲しい物とは別の物を渡されたり、聞かれた質問に長々と返答している途中に趣旨と全く違うことを話していることに気づいたり、調子に乗って出た言葉が相手の踏み込まれたくない一線を越えてしまったり、、、。
映画「街の上で」は、誰もが体験するそんな「コミュニケーションのほつれ」をすくいとっている。

高校時代、容姿や運動神経に自身がなくて、自信を持つことができたのは「コミュニケーション」だけ。恋人もいなくて、部活では補欠の自分にとって、周りを笑わせたり、場を盛り上げたりすることが唯一のアイデンティティになっていた。だから、時間があればノート片手にバラエティー番組のMCの動きを研究して、雑談についての本も読み、日記にはその日学校で盛り上げることができた場面を書き留めた。努力の成果は、それなりにあったとは思う。
でも、大学生になって気が付いた。自分が磨いていた方法論は、限定された世界で共通の話題があって、かつ、会話の相手が気を許せる場合にのみ有効なものだということ。そんな狭義な意味での「コミュ力」と引き換えに、「コミュニケーション」に対する偏った価値観を植え付けていたこと。

「盛り上がらないコミュニケーションは必要ない」「楽しませることができなければ、自分は人とコミュニケーションをする資格がない」三年間で作り上げてきた物差しに気付いた時は、もう手遅れで、頭で否定することはできても心から取り除くことはできない。
開かれた世界で違った日々を過ごす人々と交わる大学生活。話しかけても上手くコミュニケーションが取れず「ほつれ」が生じる度に傷つき、いつのまにか自分を守るため必要以上に誰かに話しかけるのをやめるようになった。

でも、本作で映し出される「コミュニケーションのほつれ」を見ていると笑みがこぼれてしまう。それはなぜか。共感できるから?観客という安全な立場が居心地の良さを感じているから?どちらでもない。あれほど嫌悪していた「コミュニケーションのほつれ」を愛せていることが嬉しかったからだ。主人公の青が様々な人と傷つけ、傷つけられたり、分かり合えたり、すれ違ったりしながら言葉を交わしているなかで生じる「ほつれ」があまりにも尊くて愛しい。

たとえ盛り上がらなくても、面白くなくても「ほつれ」だらけであっても、何かを伝えようと必死に言葉を紡ぐことはそれだけで価値のあるものなんだと、この映画を通して心の底から思うことができた。

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